春蚕前、喜八郎があちらで大病をして、志津は胸の潰れる程心配したがその時、おときが或る黒焼薬を持ってきて呉れたのだった。
「うちのお父っさまが大患ひした時飲んだ残りだけれど……」さう云って渡して呉れたのだがその薬と云ふのは、おときの妹が縁づいてゐる大沢部落の方で手に入れたので、この四倍許りで十五円も出したといふ話しだった。志津はおときの親切を涙を流して感謝した。そして誰よりもおときを頼りに思った。
「そりゃまあ喜八郎まもいい按配だ。なんちゅっても若い者はよくなりたちぁ一気だで……」
 おときは急に忙しさうに「まあお上りなさいましょ」さう挨拶して坂を下りて行った。
 おときのやうに働く女もなかった。毎年の様に子を産んだが三日目にはもう起きて働いた。年取ってゐて体の弱い亭主を実に大切にして、(おときの亭主孝行は有名だった)一日置位に薬草の風呂を立てる事を欠かさなかった。志津は子供を連れて折々風呂を招ばれに行った。
「おときさもああやってひとりで賄切り廻して行くんだで、なんちゅっても偉いお嬶っさまさ、ちィったあ噂も云はんならんらよ!」
 蔭での評判はさうだった。
 志津は屋敷畑を下りて石垣下の畑へ入った。そこは彼岸伐りにしてあるほんの狭い畑だった。向うの方はずっと地続きに隣家の畑だった。地境には細い区切がしてあった。以前には深い溝がついてゐたのがいつの間にか埋められて了った。隣家の方で一鍬づつ掘り進んで来るので、攻められて志津の方では一歩づつ身を引く立場に立たせられた。一鍬づつでも永い間には大きなひらきがついて来るものだ。
 おときもいつかその事を、
「ほんに身上拵へるやうな人はどっか違ったとこがある!」
 さう感心の態で云ったものだ。
 志津はなる丈蔭の方の軟かい葉を探し乍ら摘んだが日に焼けてゐて、それでなくさへ痩せ切ってゐるのでいくらも摘めなかった。
 地境には、隣家で植ゑた改良の大葉が牛蒡の葉ほどもある大きな葉を茂らせてゐる。
 志津はその膏切ったつやつやしい芽桑を見ると、わけもなくむっとした。まるで自分自身の食慾のやうにこんな滋養のある軟かい葉を思ふ存分寝起きの蚕に食べさせてやりたいと云ふ気持が切なく湧いた。
 志津は一葉プツリと摘んで見た。ギスギスするほど厚ぼったい葉だった。切り口から白い乳がヂッと滲みだした。志津は努めて平気でをらうとした。そして大急ぎで三葉四葉摘み取ったのを、尾籠の中へ押し込んだ。
 夕闇が静かに追って来て涼しい風がザワザワと桑畑をゆすぶった。
 山には漆の花が咲いて散った。
 森田部落は高い山の上の盆地で他部落へ行くにはどっちへ行くにも坂を降りるか登るかしなければならない。大体岡田村全体が谷間谷間に一部落づつ形成してゐる地勢で他部落との交渉が割に薄かった。大抵のことは部落内でまとめる事が多かった。
 森田家の没落と共に、森田部落の周囲を幾重にも取り捲いてゐた森林が丸坊主に伐り払はれた。
 それは如何にも瞬く間だった。杣が大勢入り込んで杉や檜や松の大木を片端から倒して行った。皮を剥かれた丸太の材木は毎日山を下り、運送に積まれて町の方へ運び去られた。
 跡には赭茶《あかちゃ》けた山の地肌が醜く曝け出され、岩石と切木株がゴツゴツと露はれてとげとげしい感じを与へた。落葉がいくらとなしに積って腐蝕した山の地面は歩むとへんにボコボコとした軟らかい足|触《さは》りがした。そして役にも立たぬ馬酔木《あしび》や躑躅《つつじ》がしょんぼり残された山一杯に木屑《こっぱ》が穢なく散乱した。その木屑を大抵の者が密っと自分の家へ運んだ。家の裏手へ積み上げた者もあった。
「源公の野郎、木っぱと嬶《かかあ》とばくみっこ[#「ばくみっこ」に丸傍点]すりゃがって!」(交換の意)
 源吉の女房が情夫を作って村を出て行く時分にはそんな悪口も云はれたものだ。
 防風林を失った部落はいきなりガランと投げ出された。高い処へ登らなければ見えなかった遠い飯田の町がどこからでも見えるやうになった。
 冬になると駒ヶ嶺颪がぢかに吹きつけた。痩せた部落は一層荒涼と雪に埋められ、家々は一層貧相で見窄らしくなった。
 部落の北の水沢地籍には古くから一つの泉が湧いてゐた。清洌な清水が滾々と絶えず湧いて水車が廻る程豊富な水量だった。
「中井の水は村一番だ。甘露の味がする。俺が死ぬ時は中井の水を死水に取っておくれ」森田の祖母のお安は口癖のやうにそれを云ってゐたものだった。
 志津達姉妹は祖母の命令で折々手桶に汲みに行った。その泉の水が近年めっきり味が落ちて普通の水になって了った。泉も底が浅くなり死んだやうに静かで、みみず[#「みみず」に丸傍点]が白い腹を見せたりするやうになった。
「水までかはった」さう云って何か不思議さうに思ふ者もあった。だがそれは不思議でもなんでも
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