でにしまったのに相違《そうい》ない。あけようと、あせっても、なにしろ前にくまをひかえて、片手をうしろにまわしての仕事《しごと》だから困《こま》った。くまはいよいよ牙《きば》をむきだし、いまにもとびかかろうという気勢《きせい》を見せている。
「いつものところで、ブレーキをかけることをおこたったら、列車は脱線《だっせん》するかもわからない。けわしい崖《がけ》の中腹《ちゅうふく》を走っている列車は、それと同時《どうじ》に数《すう》十|尺《しゃく》の下に岩《いわ》をかんでいる激流《げきりゅう》に、墜落《ついらく》するよりほかはない。」
そう思うと、自分は、もうじっとしていられなかった。おそろしさもわすれて、いきなり、さけをひろい上げると、それをくまの方に投《な》げつけておいて、そのひまに戸をあけようとあせった。
「うわう……。」
ものすごいさけび声が列車の騒音《そうおん》にもまぎれずに、ひびきわたった。ガタピシとひっかかって、戸は動《うご》こうともしない。自分はふり返《かえ》りざま、また、気ちがいのようにランプをふりまわした。くまは、後足《あとあし》で立ち上がったまま赤いランプの光におびえてか、爪《つめ》をとぐねこのように、バリバリとそばの羽目板《はめいた》に爪をたてた。
一息《ひといき》ついた自分は、とっさに戸の上部《じょうぶ》のガラスまどをやぶろうと考えた。いきなり、うしろをふりむくと、手にした旗《はた》のぼうでガラスをつきくだいた。ガラガラとガラスの破片《はへん》のとびちる音が気味悪《きみわる》くひびいた。同時《どうじ》にくるいたったくまは一声《ひとこえ》高くうなると、自分を目がけてとびかかってきた。あぶないところでむきなおった自分は、むちゅうで、横ざまにからだをなげだした。そのひょうしに、シグナル・ランプは、ガチャンとはげしい音をたててこわれてしまった。
なまぐさい、べとべとしたさけの中にはいつくばっている自分の、うしろの方で、くまはううううと、うなっている。さいわいに、くまの爪《つめ》にはかからなかったが、たった一つののがれ道であるまど口《ぐち》を、くまのために占領《せんりょう》されてしまったのである。
列車《れっしゃ》は、くまと自分とを真暗《まっくら》やみの貨車《かしゃ》の中にとじこめたまま、なにも知らずに、どんどんとはしっている。少し速度《そくど》がゆるんできたようだ。自分は、また、ブレーキのことを思い出して、ぞっとした。
「うううううう。」
くまはきゅうにまた、ものすごいうなり声をたてはじめた。さて、どうしたら、自分は制動室《せいどうしつ》へもどることができるであろうか?
「うわう……。」
と、一声、すさまじいうなり声をあげたと思うと、いきなりとびかかってきたくまの腹《はら》の下を、横にくぐりぬけるようにからだをなげだしたので、あぶないところで、自分はくまの爪《つめ》にかかることだけはのがれることができたのだが、さて、少し気が落着《おちつ》いてくると、おそろしさと不安《ふあん》とが、前の二|倍《ばい》になって自分の胸《むね》におしよせてきた。
たった一つののがれ道だと思ったガラスまどは、くまの大きなからだで、すっかりふさがれてしまったのだ。自分とくまは、さっきとはまったく、あべこべになったわけだ。自分はまるでくまのおりへ入れられたようなものだ。
さっきまでは、とにかくにげられそうな希望《きぼう》があった。まどへ両手《りょうて》をかけてさえしまえば、飛越台《とびこしだい》の要領《ようりょう》ででも、どうにか制動室へからだを運《はこ》ぶことができると思っていた。それがだめだとなると、自分はまったくもう、どうしていいかわからなくなってしまった。自分の命《いのち》があぶないばかりでなく、車掌《しゃしょう》として重大《じゅうだい》な任務《にんむ》をはたすことができない。非常信号機《ひじょうしんごうき》? ――そういうものがあればいいのだが、なにしろ、むかしの開通《かいつう》してまもなくの鉄道《てつどう》なのだから、そういう用意《ようい》がまるでないのだ。
ともかく、じっとしてはいられないから、そろそろからだをおこしてみた。四つんばいになると、さっき投《な》げだした、シグナル・ランプのこわれがジャリジャリと手のひらにさわる。なまぐさい魚《さかな》のにおいにまじって、こぼれた石油《せきゆ》がプンと鼻《はな》をうつ。――なによりも大事《だいじ》な、たった一つの武器《ぶき》とも思っていたランプが、メチャメチャになってしまったのである。
「自分はなにを持ってくまと戦《たたか》ったらいいだろうか?」
そう思うと自分はまったく絶望《ぜつぼう》してしまった。――それでも自分は、ガラスのかけらで手を切《き》らないように用心《ようじん》しながら、そろそろとあたりをかき探《さが》してみた。なんというあてもない、ただ自分は、むちゅうでそんなことをしていたのだ。
「うわう……。」
くまは、またうなり声をあげた。自分は、ぎょっとして、そちらを見すかしたが、真暗《まっくら》やみの中で、よくは見えないが、くまは戸口に前足をかけたまま、動《うご》かずにいるようだ。
自分は、その時、みょうなことを考えた。――いや、考えたことがらは、みょうでもなんでもないのだが、そんな、せっぱつまった場合《ばあい》に、よくも、あんな、のんきなことを考えだしたものだと、それがみょうなのだ。
それは、自分がいままでにきいたくまについての、いろんなめずらしい話なのだ。そんなものが、つぎからつぎへと頭《あたま》にうかんできた。
……そのうちの一つは、ふいに山の中でくまにでくわした人の話だった。そういう場合に、死んだふりをするということはだれでも知っている。しかし、これは、それにしてもものすごい話だった。――その人は、やはり、どうすることもできず、仕方《しかた》なしにたおれて息《いき》を殺《ころ》していたのだそうである。くまが、頭《あたま》のそばへきて、自分をかぎまわしているのが、はっきりとわかる。かれは、まったく死んだようになって、心臓《しんぞう》の鼓動《こどう》までも止めるようにしていた。もっとも、そんな時にはかえって心臓はドキドキとはげしく打《う》ったことだろうが……。じょうだん[#「じょうだん」に傍点]はさておき、二|分《ふん》……三分……そのうちにくまのけはいがしなくなったように思われた。その男は、もういいだろうと思って、かすかにうす目をあいて見たのだそうだ。――その瞬間《しゅんかん》、ザクンと一打《ひとうち》、大きなくまの手が、かれの右の額《ひたい》から頭にかけて打ちおろされた。男は、むちゅうでバネ仕掛《じかけ》のようにとび上がって、あとはどうしたのか自分にはわからない。ともかくその男は助《たす》かったそうである。大方《おおかた》、くまもふいをうたれてびっくりしたのだろう。しかし、目をあいて見るまでの時間は、わずか一分か二分だったのだろうが、その男には、どんなに長く感《かん》じられたことだろう。――
つい、話が横道《よこみち》にそれた。――しかし、くまといっしょに貨車《かしゃ》の中にとじこめられたまま、自分はまったく、そんな、人の話などを思いだしていたのだからみょうではないか。
「ごーっ。」
というひびきが、列車《れっしゃ》全体《ぜんたい》をつつむようにとどろきわたった。
「鉄橋《てっきょう》だ。」
と思うと、自分はもうじっとしていられなかった。川をわたってから約《やく》二マイルのところが例《れい》の難所《なんしょ》なのだ。機関士《きかんし》も、十分《じゅうぶん》に速度《そくど》を落《おと》しはするが、後部《こうぶ》のブレーキは、どうしてもまかなければならないことになっている。が、速度のついた列車が、機関車のブレーキ一つで支《ささ》え切《き》れないとすると、脱線《だっせん》か転覆《てんぷく》……か。わずか二、三|両《りょう》ではあるが、混合列車《こんごうれっしゃ》のことなので客車も連結《れんけつ》されている。その乗客《じょうきゃく》たちの運命《うんめい》は、まったく、自分ひとりの腕《うで》にあるといっていい。
自分は、足をふみしめて立ち上がった。と、ふいに明かるい光が一すじ、目の前を走って、暗い車内にななめの線を落している。
「月だ……月の光だ!」
貨車《かしゃ》の横腹《よこばら》にある大きな板戸《いたど》の、すきまをもれていましがた上がったと思われる月がさしこんできたのであった。自分は、なんというわけもなく勇《いさ》みたった。月の光をたどって見ると、さけの山にかけられたむしろ[#「むしろ」に傍点]が二、三|枚《まい》、足もとに落ちている。
「これだ。」自分は、とっさに思った。「火だ、火だ。」
自分は、あせりにあせって、ポケットのマッチをさがそうとしたところが、どうしても手がポケットにはいらない。もどかしく思って、ぐッと手をおしこもうとすると、ポキリと折《お》れたものがある。見ると、それはろうそくではないか。――さっき、ころんだひょうしにポケットからとびだしたのを、むちゅうで、手さぐりでつかんでいたものとみえる。
二、三本いっしょにマッチをすると、自分はまずそれをろうそくにうつした。――やぶれたガラスまどへ片手をつっこんだまま中腰《ちゅうごし》に立っているくまのすがたが、きゅうに明かるく照《て》らしだされた。にわかに火を見たくまの目は、ギロギロとくるいだしそうに光った。
自分は、むしろに火をつけた。メラメラともえ上がったと思うと、しめり気《け》があるとみえて、すぐに力なく消《き》えそうになる。
くまは、低《ひく》く長くうなりだした。それは、さっきまでほえたような声とちがって、大敵《たいてき》に出会《であ》った場合《ばあい》に、たがいにすきをねらってにらみ合っているような、不気味《ぶきみ》なものだった。
こっちの火勢《かせい》がよわければ、今にもとびかかろうかという気配《けはい》が見えた。
自分は、さっき石油《せきゆ》がこぼれたと思うあたりに、足で下に落ちているむしろをおしやり、手に持った一枚のもえかけたむしろを、楯《たて》のようにからだの前にかざしながら、足さきで、むしろに石油をしみこませようと、ごしごしと下のむしろをふみつづけた。
くまは、まだうなりながら、自分をにらみすえている。
手に持っているむしろが、消《き》えないうちに、手早《てばや》く自分は、床《ゆか》のむしろをひろい上げた。
石油がしみたのか、むしろがかわいていたのか、今度《こんど》は、勢《いきおい》よく一時にパッともえついた。
この機会《きかい》をはずしてはと、自分は、もう、おそろしさもわすれて――実《じつ》は、おそろしさのあまりだが――もえ上がるむしろを、ちょうど、スペインの闘牛士《とうぎゅうし》が使う赤いハンケチのようにふりながら、じりじりと前進《ぜんしん》した。
鼻《はな》さきでもえる火を見ては、くまもがまんができなかったのだろう。どしんと大きな音をひびかせて、うしろへとびのいた。
それといっしょに、またまどガラスの落ちくだける音がした。くまと自分ははじめと同じ位置《いち》にもどったわけだ。すみのかべ板《いた》に背中《せなか》をこすりつけて、立ったくまは、まるでまねきねこ[#「まねきねこ」に傍点]みたいなかっこうだった。(あとになってわかったことだが、くまは、ガラスまどに手をつっこんだひょうしに片手にけがをしたので、自然《しぜん》そんな手つきをしたのだ。)
この時、だしぬけに汽笛《きてき》が、ヒョーと鳴《な》った。下《くだ》りのカーブにかかる合図《あいず》なのだ。
自分でも、よく、それが、耳にはいったと思う。――自分は、なにもかもわすれて、うしろのガラスまどへ上半身《じょうはんしん》をつっこんだ。
しかし、どうしても足がぬけない。死にものぐるいでもがいているうちに、さいわいに、手が、ブレーキのハンドルにかかった。
自分は、宙《
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