この森然たる眼前の景を観たり[#「吾れは天地の神と偕に、同時に、この森然たる眼前の景を観たり」に白丸傍点]てふ一種の意識に打たれたり。唯だこの一刹那の意識、而《し》かも自ら顧みるに、其は決して空華幻影の類《たぐ》ひにあらず。鏗然《かうぜん》として理智を絶したる新啓示として直覚せられたるなり。予は今尚ほ其の折を回想して、吾れ神と与《とも》に観たり[#「吾れ神と与に観たり」に傍点]てふその刹那の意識を批評し去る能はず。
終はりに語らんとするもの、是れ曩《さき》に驚絶駭絶の経験と言ひたるものにして、これまで予が神の現前につきて経験せるもののうち、かくばかり新鮮、赫奕《かくえき》、鋭利、沈痛なるはあらじと思はるゝ程なり。予は今なほ之れを心上に反覆再現し得ると共に、倍々[#「々」は、底本では踊り字の「二の字点」]《ます/\》其の超越的偉大に驚き、倍々[#「々」は、底本では踊り字の「二の字点」]其の不動の真理なるを確めつゝあり。左に掲ぐるは、当時の光景を略叙してさる友に書き送れる書翰《しよかん》の大旨なり。
[#ここから引用文。一字下げ]
藪《やぶ》から棒に候《さふら》へども、いつぞや御話しいたし候ひし小生あの夜の実験以来、驚きと喜びとの余勢、一種のインスピレーションやうのもの存続いたし候《さふらひ》て、躰にも多少の影響なきを得ず候ひき。
彼《か》の事ありてこのかた、神に対する愛慕一しほ強く相成申候《あひなりまうしさふらふ》。如何《いか》にすればこの自覚を他に伝へ得べき乎《か》とは、この頃の唯一問題にて候也。一面にはこの自覚、人に知られたしとの要求|有之《これあり》候へど、他の一面には、更に真面目《まじめ》に、厳粛に、世の未だこの自覚に達せず又は達せんとて悩みつゝある多くの友に対する同情を催起いたし居《をり》候。この事によりて、小生幾分か、釈迦《しやか》の大悲や、基督《キリスト》の大愛を味ひ得たる感有之候也。
本年のうち小生はこれと併《あは》せて三たびほど触発の機会を得申候。他の二つの場合(前に陳《の》べたるものを斥《さ》す)も今|憶《おも》ひ出だし候てだに心|跳《をど》りせらるゝ一種の光明、慰籍《ゐしや》に候へども、先日御話いたしし実験は、最も神秘的にして亦《また》最も明瞭に、インテンスのものに候ひき。君よ、この特絶無類[#「特絶無類」に傍点]とも申すべき一種の自覚の意《こ
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