」に白丸付く]あることを。真に神を見[#「見」に白丸付く]ずして真に神を信[#「信」に白丸付く]ずるものはあらず。基督の信は、常に衷《うち》に神を見、神の声を聴《き》けるより来たり、ポーロの信は、其のダマスコ途上驚絶の天光に接したるより湧《わ》き出でたり。菩提樹《ぼだいじゆ》下の見証や、ハルラ山洞の光耀や、今一々煩《わづら》はしく挙証せざるも、真の見神の、偉大なる信念の根柢たり、又根柢たるべきは了々火よりも燎《あきら》かなり。見[#「見」に白丸付く]なき信は盲信となり、頑信となり、他律信となり、外堅きが如くして内自ら恃《たの》む所なきの感を生ずべし。我等が神を信ず[#「神を信ず」に傍点]と言ひて、尚ほ自ら顧みて、どことなく其の信念の充実せざるを感ずることあるは、是れ尚ほ未だ面相接して神を見ざるが故《ゆゑ》にあらずや。「見ずして信ずるものは幸《さいはひ》なり」、「信仰は未だ見ざる所を望んで疑はず」などいふ古言もあることなれど、是れ未だ真理の両端を尽くしたるものとは言ふべからず。見ざる所を信ずる信をして信たらしむるもの、是れ即《やが》て既に幾分か見たる所の或物を根柢とせるが故に非《あら》ずや。勿論詮議《もちろんせんぎ》を厳にしていはば、見は竟《つひ》に信に帰著すベし。信[#「信」に白丸付く]の尖鋭照著なるもの、即て見[#「見」に白丸付く]なりともいふベし。されど、こゝには唯だ普通|謂《い》ふ所の信の一義を取つて言説せるなり。されば予は将《ま》さに曰《い》ふベし、見ずして信ずる烽フは幸也、されど見て信ずるものは更に幸也と。而してこゝに謂ふ見る[#「見る」に傍点]の義がかの基督の一弟子が手もて再生の基督の肉身に触れて、さて始めて彼れを見たりとせるが如き官覚的浅薄の意味ならざるや、論なき也。夫《そ》れ真に神を見て信ずるものの信念は、宇宙の中心より挺出《ていしゆつ》して三世十方を蔽《おほ》ふ人生の大樹なる乎。生命《いのち》の枝葉永遠に繁り栄えて、劫火《ごふくわ》も之れを燬《や》く能はず、劫風も之れを僵《たふ》す能はず。
予は予が見神の実験の、或は無根拠なる迷信ならざるかを疑ひて、この事ありし後、屡々[#「々」は、底本では踊り字の「二の字点」]《しば/\》之れを理性の法庭に訴へて、其の厳正不仮借なる批評を求めたり。而して予は理性が之れに対して究竟《きうきやう》の是認以外に何等の
前へ
次へ
全10ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
綱島 梁川 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング