かむとしぬ。わが要《もと》めは空《むな》しからず、予はわが深き至情の宮居にわが神|在《いま》しぬと感じて幾たびか其の光明に心|跳《をど》りけむ。吾が見たる神は、最早|向《さ》きの因襲的偶像、又は抽象的理想にはあらざりし也。されどかく端的に見たりと感じたりしわが神の、尚ほ一重の薄紗《はくしや》を隔てたる如き感はあらざりし乎《か》、水に映りし花の、朧ろのこゝろを著けざりし乎。予は過去の幼穉《えうち》なる朧げなる経験をば一切虚也、誤也、又は無意義なりとするものにあらず。予は過去一切の経験を貴ぶ。それら皆其の折の機根相応に神を見たる真実|無妄《むまう》の経験として、わが宗教生活史の一鎖一環をなす者にあらずや。謝せよ、これ皆上天の賜《たまもの》也。但《た》だ、予は従来の一切の経験を以て、わが不動の信念の礎《いしずゑ》とせんには、尚ほしかすがに一点の虧隙《きげき》あるを感ぜざるを得ざりし也。予が従来の見神の経験なるもの、謂《い》はば、春の夜のあやなき闇《やみ》に、いづことしもなき一脈の梅が香を辿《たど》り得たるにも譬《たと》へつベし。たしかにそれと著《し》るけれど、なほほのかに微《かす》かなりき。而して今や然らず。わが天地の神は、白日|魄々《とう/\》、驚心駭魄《きやうしんがいはく》の事実として直下当面に現前しぬ。何等の祝福ぞ、末代下根の我等にして、この稀有《けう》微妙の心証を成じて、無量の法《のり》の喜びに与《あづか》るを得ベしとは。
 夫《そ》れ見[#「見」に白丸付く]と信[#「信」に白丸付く]と行[#「行」に白丸付く]とは、吾人の宗教生活に於ける三大要義也。三者は相済《あひな》し相資《あひたす》けて、其の価値に軒輊《けんち》すべき所あるを見ず。だゞ予は、予みづからの所証に基づきて、見[#「見」に白丸付く]の一義に従来慣視以上の重要義を附せんとす。人|動《やゝ》もすれば見[#「見」に白丸付く]と信[#「信」に白丸付く]とを対せしめては、信[#「信」に白丸付く]の一義に宗教上|千鈞《せんきん》の重きを措《お》くを常とし、而して見[#「見」に白丸付く]の一義に至りては之れを説くもの稀《まれ》也、況《いは》んや其の光輝ある意義を※[#「確」の「石」に換えて「てへん」]揮《かくき》するものに於いてをや。されど、予は信ず、偉大なる信念の根柢《こんてい》には、常に偉大なる見神[#「見神
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