随うてまた国民と為《な》すなきの文学なりと(『太陽』第七号「文芸界」「小説革新の時機」参照)。此《これ》に問ふべきは、何が故《ゆゑ》に小説は国民の美質をのみ描かざるべからざるかといふ事なり。国民の短処、醜処は(吾人はこれなしと断ずるの理由を認むる能《あた》はず)何故に以て詩材と為すべからざるか。苟《いやしく》も美の約束に乖《そむ》かざる限りは美醜長短皆以て詩中の内容となすを得べきにあらざるか。弁ずるものは曰《い》はく、詩材は必しも国民の美質に限れりとは言はず、唯々[#「々」は、踊り字の「二の字点」]しかするにあらざれば以て国民的性情を満足せしむる、能はざるが故のみと、されど吾人は尚《なほ》問ふことを得べし、論者は如何なる見地より、国民の美質をのみ描きたる作にあらざれば以て国民の性情を満足せしむる能はずと断じ得るぞと。国民の醜処短処を描きたる作は何故に国民的性情を満足せしむる能はざるか。国民の醜処短処また是れ国民性の一部にはあらざるか。同じく国民性を描きながら、一は其の美所なるが故に国民的性情に満足を与へ、一は其の醜所なるが故に之れに満足を与へずといふの理由は如何に之れを解すべき。国民自身にして其の「我」に媚《こ》び、一種の実情を挿《さしはさ》んで之れに対すれば知らず、苟も美術として之れを賞翫《しやうぐわん》するにあたり、其の美処を描きたると醜処を描きたるとを問ふの必要あるか。むしろ美醜両面を併写《へいしや》せる真個の「我」を描写したる底の作物にこそ甚深《じんしん》の満足を感ずべきにはあらざるか。仮りに歩を譲りて国民の美質を描きたる作にあらずば以て国民的性情を満足せしむるあたはずとせんも、文学には尚人としての通情に訴ふる一面[#「尚人としての通情に訴ふる一面」に傍点](かりに抽象[#「抽象」に傍点]して言へば)あるを見る。かるが故に此《こゝ》に一コスモポリタン或《あるひ》は一外人を主題とせる一作物ありて其は主題の自然の結果として所謂《いはゆる》国民性に触れたるところ著明ならず(全く之れに触れずとは言ふ能はず)随うて仮りに国民としての意識の満足を此に見るを得ずとせんも、若《も》し件《くだん》の作にして或s易なる人生[#「不易なる人生」に傍点]の消息を描きたるの側ありとせば、吾人は之れに一種幽奥なる性情の満足を感ぜざるべきか。されど此《か》くの如き作は到底国民としての意識
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