描写せしむるにとゞまるフ悔なきを得るか。或は浪六[#「浪六」に傍点]もしくは弦斎一流[#「弦斎一流」に傍点]の小説家が今日に歓迎せらるゝの因を其が国民的特質を描けるの点に帰するものあり、されど浪六《なみろく》、弦斎の作を読みて国民的性情の満足を感ずるの徒は浅薄なる俗人的理想を悦《よろこ》ぶの徒か、然らざれば過去の理想に満足するの徒にはあらざるか。何となれば其の作中に現れたる理想は馬琴、京伝の描きたる理想、言ひ換ふれば多くは過去の理想を再現したるに過ぎざれば也、(弦斎の作には尚《なほ》読者を惹《ひ》く他の一面あれど)。而して此《か》くの如き理想を以て果して今の我が国民に普遍なる特質なりと言ふを得べきか。蓋《けだ》し我が社会は今や新旧過渡の期に際して挙世の趨向《すうかう》に迷はんとす。此の時にあたり、幾多主観的作家の擾々《ぜう/\》たるを見て一国民的詩人もしくは一客観的詩人を見る能《あた》はざる、蓋しまた自然の数にはあらざるか。是等幾多の主観的、抒情的小詩人を葬り去つて後、始めて綜合的客観詩人の徐《おもむ》ろに荘厳なる美術的|伽藍《がらん》を築き来たらんとするにはあらざるか。
 或は曰《い》はく、所謂国民性の描写を言ふものの真意は今の写実的小説に慊らざる所[#「写実的小説に慊らざる所」に傍点]あるが為なりと。以為《おも》へらく、写実小説は文学独立論を意味し、文学独立論は国民的性情の蔑視《べつし》を意味す、これ今の小説の国民に悦ばれざる所以《ゆゑん》なりと。さもあれ吾人は何故に写実小説が其の必然性として国民性の蔑視を意味するかを解する能はず。写実小説|豈特《あにひと》り国民性の埒外《らちぐわい》に逸するものならんや。もし之れを解して、今の写実小説に今一層国民性の美所[#「美所」に傍点]を描けとの意となさんか、(今の写実小説が果して国民性の醜所をのみ描けるやは姑《しばら》く問はざるも)則ち今一層理想的作風[#「理想的作風」に傍点]を取れとの意となさんか、此の要求の当否は兎《と》も角《かく》も、所謂理想的なるもののみ何故に国民性を描くと称せられ、其の醜処弱処を描けるもののみ何故に非国民的と称せらるゝかの理由明ならざるにあらずや。吾人は今の写実小説を以て国民性を描かざるものと思惟《しゐ》する能はず、(かく言ふは無意義なり)随うて此の理由によりて今の写実小説を排する所以を解する能
前へ 次へ
全9ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
綱島 梁川 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング