經驗をする必要はないと見てゐる。是は實行に訴へる迄もなく考へただけで直ぐ分る。故に彼は百年を期する。又常に互性活眞の劔を懷にしながら唯之を撫するのみで、決して人に切付けない。そこに武士の情がしのばれてゆかしいところがあるではないか。敵味方ともに見傚つて貰ひ度いものである。
 男女の關係の亂るることが爭鬪の端をなすのは周知のことである。是は大切なことであるから特別の扱ひを要する。安藤は性の樂は無上にして念佛の心も起らず[#「無上にして念佛の心も起らず」に白丸傍点]と云つたり、倫理を裏返しにしても解釋の付かないことを認めたりして、甚だ同情を表するものであるが、もし彼を立川派の亞流と見たり、現代無法主義の先驅者と見たりしては全く彼を冒涜することとなるのである。そこで彼は嚴肅なる一夫一婦制の主張者であることを聞いたら失望する族もあるかも知れないが、致方がないから説明する。偖て茲にm男n女ありとすれば各男各女と結付く可能性あるが故に、m男n女の混合物を想像することは、之を實驗に訴へなくとも容易である、就中一男數女或は數男一女の集團も出來る。しかし尤も坐りよき釣合を保つものは一男一女の結晶である。而して其結合の強固なる理由は爭ひの起ること少いからであらねばならない。この爭ひを少くすると云ふ理由の基に一夫一婦制を主張するのである。若しこの制に戻るものありと見れば安藤は王公と雖も許さず、彼一流の痛罵を浴せる、這般の消息を語る言葉に一夫數婦は野馬の業なり[#「一夫數婦は野馬の業なり」に白丸傍点]といふがある。一婦數男を聞いたら蜂蟻の行ひに如かずとして笑つたであらう。
 右の定理の系として、獨身はいけないこととなる。男女は互性活眞の理に協ふ樣に一男一女の配偶をとらなければならないから、獨身は片輪である。所謂一男一女にして初めて完全なる社會人となるのである。此意味に於て男女《ヒト》を人と訓讀せしむるのである。
 安藤は互性活眞の利劔を以て世相を切捲り、其矛盾不合理を摘發し、法世をして完膚なきに至らしめ、かかる不都合なる法世を現出せしめたる重なる原因は、思想の指導者たる聖人及び宗教家にありとするのである。彼等は自然を覺らず正智を得ざるに氣付かず、妄迷的なる亢偏智[#「妄迷的なる亢偏智」に白丸傍点]を以て自然を曲解し、種々なる價値觀を立て講説、文章、藝術、暴力等あるとあらゆる方法を以て其誤りたる理想を實現せんと努めたる結果、人々皆高きを思ひ、貴きを思ひ、利を思ひ樂を思ひ、之を求めんとして遂に罪惡を作るに至つたのである。人々は慾を煽られ罪惡を犯すに至つたとすれば、之を煽つた者は尚更深い罪惡を犯した者と見ざるを得ない。此見方を爲すことに由り安藤は聖人格の人を糞に比し、其言を聞く者を青蠅と云ふのである。又或所では自分は糞と呼ばるるも意とせず、却て聖人と呼ばるるを恥づと云ふのである。其理由は糞でも聖人より有益である。
 此見方は頗る峻酷である。安藤は亢偏智[#「亢偏智」に白丸傍点]を弄する者と取り免さなかつたであらうが。知らずして善意を以て爲す者と見たら免さなければなるまい。しかし知つてゐるが故に人欲を煽り己の爲めにするものありとすれば是は免すべからざるものである。聖人を擔※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]る徒にも往々此の如き者を見出すに至つては實に法世の爲めに悲まざるを得ないところである。かうした不都合も食ふ爲めの職業であつたり商賣であつたりする上に、又其所に種々祕密な關係があつたりするので、爲政者も大目で見て置かねばならない樣な所がありとすれば、法世は文化の進歩につて却て欺瞞の陳列場の如き觀を呈し、一方には奢侈逸樂を助長し、一方には怨嗟失望を誘致し、人心を惡化せしむることあるも、終に如何ともすること能はざるに至るのではないかと考へられる。此傾向は慥にあるものと認めざるを得ない。色目鏡を外づせば歴然として目前に現れる、隱匿辯護の餘地はないのである。是は實に法世の缺陷であり病氣であるのである。これあるがために罪惡を犯すもの盡きざるも亦明白なる事實である。而て其缺陷其罪惡の根本的救治は之を律法に求むるも得べからず、之を教法に求むるも亦得べからざることは、既往と現在とに徴して是亦餘りに明白なる事實である。かかる明白なる事實は事實なるが故に之を如何ともすべからざるものと見ることも出來る。是は頗る透徹したる見方である。しかし法世の見方はここまでは徹底し得ない。どうしても相も變らぬ教法を以て糊塗することに勉むるの外ないのである。然らば即ちその根本的救治策は到底成立の見込立たざる性質のものであらうか。これは是れ眞に世を憂ふるものの夙夜忘るべからざる問題でなければならない。しかしかかる問題を單に提起するさへ容易のことではない。まして成案を作るに至つては彌※[#二の字点、1−2−22]以て至難のことと云はざるを得ない。法世を捨て自然世に向はせしめようとする安藤は責任上此問題に對する具體案を示さざるを得なくなつた。勿論聖人も考付かなかつた新しい試みであるから、少しは驚く樣なことがあるかもしれない。其代り所謂百年を期するので、決してクーデターに出づる樣な政略的卑劣のことはしない。全く相談的に出るのである。其上安藤は口不調法でいけないから私が彼の考へたことの意味を代演する。
 武士は封建制度の作り出した最高の産物である。國土に培ふ櫻と共に日本の名物となつてゐる。武士の尊き所以は武士道にあることは云ふまでもない。其武士道は如何にして出來たか。諺に衣食足つて禮節を知ると云ふことがある。彼等は皆祿を貰ひ、末代生活の保證を得て居たものである。之を與るものの義務慈愛の態度と、之を受くるものの責任敬愛の觀念とが融合して、微妙の勢力となり、彼等の意志を精練し行動を莊嚴ならしめた結果が即ち其武士道である。根柢に於ては上下相愛共存共榮の心に外ならないのである。かかる結構なる制度があるならば、四民悉く武士になつたらどうであらう。それでは明日から食物に差支へるから困る。いやそこである。食物は何よりも大事と氣付いたら、武士は武士のまま歸農する。而して其中から必要に應じて工商を營むものを作ることとする。しかし誰一人徒食の遊民たることを許さない。皆勞作して食ふこととする。苟くも武士たるものは末代生活の保證を得てゐるのであるから愛國奉公の志篤からざるを得ず。依て所得を政府に納め、其代り生活に必要なる支給を受くる事を條件とするのである。政府に於ては其意を領し、尤も公平なる配給法を工夫し、暴富奢侈等罪惡の原因となるべきものを發生せしめざることに注意する事は云ふ迄もない。而て歳計の餘裕を以て公共施設を整頓せしめ、國民全體の幸福を増進せしむることに盡力し、以て共存共榮の實を擧ぐるのである。偖て其政府はどうする。是は大和民族の意志に尋ねる。かくして出來上るところの新日本は武士道以上の精華を發揮して譽れを萬國に輝し、人類をして皆我日本に傚ふことに至らしむるであらう。
 以上の案は云ふ迄もなく罪惡を未然に防ぐ目的を以て提出するのである。安藤は戰を好まない男であるから、武士を農列に引摺落さうとするのであるが、私は武士側が覺醒して任意歸農する如く説いたといつた違のあるばかりで、成立するところの民族的農本組織は孰れからするも漸近的に同一點に歸着するものと見て差支ないのである。故に私の述べた所は安藤の説を曲解したものでなく、彼の精神を呑込み易い樣に現はしたものである。私の述べた案が贊成を得ないこととなれば安藤の案は尚更いけないこととなる。
 自然の何物たるかを知らざるものは仁義の桎梏を免かれ、欺瞞の陷穽を避くるに明もなく力もなく、滔々として罪惡を犯すに至るのである。之を見るに忍びず、知らしむべからず、由らしむべしと考へたものが即ち農本共産主義である。此考は眞道哲論の中に簡單に書いてあつたばかりで、外には何處にも詳説した所がない。故に私も大體を記すことに止めよう。昔し楚の許行が君民並耕の説を爲したのは頗る共産主義に近かつたものらしく思はれる。今又ソビエット・ロシヤで勞農共産を大仕懸に達成しようとしてゐるが、成否の程が見物である。學者の議論に至つては、紛々擾々、未だ歸着するところがないと見るべきである。此間に在て安藤の提案は其量に於ては甚だ貧弱なる感をなすも、其質に於ては尤も優越したる功ありと云ふべきであらう。何となれば歐米の主義は單に經濟問題に立脚し、反對に立つところの同胞を仇敵視し、忽ち喧嘩を始むるを通性となしてゐるが、安藤の主張は事物の根本原則に立脚し、萬事を理解して決して爭ひを爲さない特性を有してゐるからである。この立脚地の相違に動機の純濁を發見するのであるから、玉石を混淆すべきでない。
 救世の道程としての農本共産あるを見た所で、後は唯自然世の何物たるかを見ることが殘つてゐるばかりである。しかるに安藤が其説明を試るであらうと思はれる顯正之卷の中、何所にも其記事が見當らない。私が見ることを得なかつた生死之卷に地獄極樂の存在を主張してゐるなど想ふことは子から親が生れると考へる位覺束ない話であり、他の部分は悉く自然現象の彼一流の説明を以て充たされてあるのを以て見れば、彼の考が那邊にあつたかと云ふことが推測出來ると思ふ。即ち自然性とは先づ罪惡の發生を最小ならしむる目的を以て準備的に布くところの農本制度の樹立に始まり、自然の現象の正確なる知識を獲得し、其知識により改良しつつ落着くところに落着くのを云ふのである。是は安藤にも具體案があらう筈がないので、書くことを見合したのであらう。
 私は安藤は醫者であつたらうと云ふことを推測して置いたが、彼は醫學以外の知識も可なり廣く持つてゐたのである。顯正之卷六十餘册は彼の學殖を現はすものであつて有らゆる方面に亙り、量に於ては不足を云へない。しかし遺憾ながら取るべき所が甚だ少ない。或は歴史上の捏造説を看破したり、動物と其食物との形體の類似を推考したりして、頗る人を驚かすに足る奇論も吐くが、至る處に五行論を振※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]すのは甚だ惜まざるを得ない。しかし是は科學的知識の缺乏に歸すべきもので、當時に在つては致方のない事であつたらう。そこで私は此以上奇説や罵倒を聽くことを止め、彼の尤も重きを置いた救世觀を説明し終つたところで、一寸その概評を試みる。
 先づその救世觀を一瞥すれば、法世とは個人的に人慾を助長する制度文物の世の中。自然世とは衆人的に人慾を滿足せしむる制度文物の世の中。共産は個人慾病の下劑。科學は個人慾病衆人慾病共通の良劑。而して食物は必要缺くべからざるものなるが故に衆人農業を基ゐとして食物の充實に勉むること、とかうなるのである。其歸農充食に重きを置くに鑑み、彼の救世は救生であると云へよう。
 凡そ絶對性を帶びたる獨尊不易などいふ考へ方の大概間違つてゐることは、歐洲の思想界に在つても餘程前から知られて來た。それ故また急激の思想を調停するに都合のよい宛然哲學など云ふ折衷説も出來てゐる。世界大戰以來は實際の例證が多く提擧せられ、普通人も往々知ることになつたので、何等深き思慮のない者が雷同することが起ると危險甚しきものがある。實に二十世紀は容易ならぬ時となつた。この時に當つて二千年から前の釋迦や基督の稱へた救世の樣なことを持出すのは時代錯誤の話であると思ふ人もあらう。強ちさうでもない。救世と云ふ語は陳腐ではあるが、其實は今日の改造である。兎に角有難いことの樣に聞える。釋迦や基督の救世は心や靈の上に在つたが、安藤は之を肉體に及ぼし何から何まで救ふと云ふのであるから面白い。儒教も略同一の見方をしてゐるが安藤ほど根本的ではない。孰れの國家に在つても救世的の施設を要することは明白なることで、是は國民に對してどうしても爲さざるを得ないところである。そこで世界に於ける今日の政治が宗教などの力を借りて應急の救世を講じて見ても萬一旨く行かないとすれば、救ひを求むる者に不平の起ることは必死の勢ひであらねばならぬ。而して求むるものと與ふるものとの間に甚しき間隙を生ずれ
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