ば、鬱積したる不平は致命的に放たるる恐れがある。是は尤も憂ふべきことである。安藤は今日あるを見越して立説した譯ではないが、彼はかかる衝突の起らない樣なる社會を建設しようとしたのである。彼の農本組織は第一の目的は罪惡の防止にあるも、其樹立の結果として與ふるものと受くるものとの對峙は同時に消滅に歸することは慧眼なる讀者の見逃さぬところであらう。即ち不平の鬱積することのない樣に工夫せられてゐた安全策であつたのである。よし又此案が始めから無かつたとしても、彼の妥協的態度を維持し、決して爭を爲さないと云ふことは、尚且つ彼の存在をして大に意義あらしむるものと云はざるを得ない。何となれば與ふるものと受るものとに於て此妥協的態度を學ぶことありとすれば、忌々しき爭鬪の起るごときことがなくなるのであるから、單にこれだけにても彼の目的は幾分達せられたものと見るを得るからである。實にこの普遍的妥協の精神は彼の衝天の意氣と兩々相待つて彼をして大を成さしむるに足るものである。彼の救世策其ものに至つては珍らしく徹底的であるとは云ひ、根本思想に重大なる缺陷を有し、論議すべきところも甚だ多い。一々批評するのは大事であるから單に之を指摘するに止めて置いた。想ふに本當に正確なる救世策はまだ中々出來る迄に世の中は進んで居ない。これはずつと前に引合に出した物理學の見方に立脚した救世案が出る時にならなければ望むことは出來ない。しかし何時でも默つては居れないから、臨機の救世策とか改造策とか出來るのは止むことを得ない。聖人連中は皆此考を以て起つに至つたものである。安藤昌益も亦其一人である。而して起つ人も來る人も安心を説き、修身を説き、救靈を説き、その説の確かなる證據は地獄の入口で分らせると云ふのであるが、獨り安藤は微塵も此教を説かない。唯だ足食救生を喚ぶのみである。歸農を勸むるのみである。直耕を尚ぶのみである。勿論證據は現世に在ると云ふのである。茲に於て與ふるものと求むるものとの別なく、平心坦懷、己れを省み人を察し、皆この足食を以て第一義と成さねばならないことに想達することあらば、安藤の尚耕説はたしかに爭ふべからざる威力と、辭むべからざる恩意とを以て、誠意誠心に考按せられたるものであることを認めざるを得ない。苟くも生命あるもの宜しく猛省すべきであらう。



底本:「狩野亨吉遺文集」岩波書店
   1958(昭和33)年11月1日第1刷
底本の親本:「岩波講座 世界思潮」第三册
   1928(昭和3)年5月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:はまなかひとし
校正:染川隆俊
2001年5月14日公開
2005年12月2日修正
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