た人は必ず我と彼との區別を知り、又其相對的なることにも氣付いてゐる筈である。そこで尋ねるが、一體我考ふと云つた我は彼を知らないのであらうか。どうして彼あるを知らないで我あることを主張し得るのであらう。一切の彼を空じ終つたとすれば相對性に由て我も同時に消滅して無くなる筈であらねばならない。即ち彼の附纏はない我と云ふもののあらう道理が無いのである。故に事實問題として扱ふことになると我と云ふ途端に既に彼もあることを認めてゐると云はざるを得ない。是は明白なることである。更に又純理問題として考へて見ても、我考ふと云ふときの我と、我有りと云ふときの我とは、觀るものと觀らるるものとの別がなければならないから、結局は矢張彼我の對峙となるのである。かく考へて見れば事實上にも理論上にも、心だけが眞に存在するもので、それからあらゆる事物が生じて來るなどとは云はれないことで、心即ち我あると同時に、物即ち彼あると見るが、本當のことであらう。ここ迄考へて來ると、あの語を思ひ付いた時のデーカルトの頭には、相對的の我なる概念は單に孤立的の我なる語となつて浮んで居たのではなかつたらうかと思はれるのである。若しさうでなか
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