つたならば、彼はあんな唯心的に誤解され易いことを云はなかつたであらうと思ふ。しかし私は今云ふとするのは唯心論にどの位の聲援を與へたかを論評するのではなく、かの語の裏面には事實的にも純理的にも彼我相對と云ふことが潛んでゐることを指摘したかつたのである。
私は既に事實問題としては我あれば彼がなければならないと云うて置いたが、一體彼我の關係の意識せらるるのは何歳位から始まるかと考へて見れば、人に由て遲速はあるが、可なり幼稚の頃からと思はれる。即ち呼んだり聞いたり、遣つたり取つたりすることが出來る樣になれば、最早彼我の區別はついたのである。此頃彼とする者には親があり犬があり猫があり鷄があり馬がある。しかし尤も早く知られるのは親である。而して後になつて又總ての彼の中で尤も大事なる者は親であることが分つて來る。是は自分が親から生れたと知るからである。偖てこの知る事である。今私は自分が親から生れたと知ると云つたが、反對に自分から親が生れたと知つたら、どうであらう。自分から親が生れたと知ることは同一法には抵觸しないが現在の因果法には抵觸する。別個の因果法を具へたる者でなければ成し得ない藝當である。安
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