[#二の字点、1−2−22]割愛することとする。互性活眞は進退に比べて簡單ではあるが、安藤の敍述は極めて不充分であるから、彼の考へに基づき私が補足することとする。
五 互性活眞
近世哲學の父と呼ばれるデーカルトは我考ふ故に我ありと云つた。よく人に知られた語である。此語の意味は何者を疑ふことが出來ても、疑つてゐる自分自身の存在を疑ふ譯には往かないし、その又自分自身の存在を知らせるものは自分の心であるから、其心は即ち最後の確かなる存在であり、其心によつて自分の存在が初めて分つて來ると云ふのである。一應尤に聞える。そこで彼は是を以て彼の哲學の出發點としたものである。其哲學の是非は今問題とするところではないが、此語を鵜呑にすると忽ち唯心病に罹る恐れがあり、また流石のデーカルトも其當時彼が目的としたことにばかり注目して、此語を成立せしむるに必要なる心理的條件などを考へる暇がなかつたではないかと思はるるから、一つ吟味して見ることとする。
凡そかかる抽象的なる思索を爲すことの出來るのは、一歳や二歳の赤坊に望むべからざることで、必ずや相當成熟したる心の持主でなければならない。さうし
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