かつて其所に辿付いたものであるのであらう。尤も最後の瞬間は頓悟でも感悟でもよろしい。次に又誰も知つて居なかつたと云ふ事も、安藤がしかく思つただけで、彼が寡聞のためさう思つたのであらうとして置く。彼は常に吾は無學である[#「吾は無學である」に白丸傍点]、吾に師なし[#「吾に師なし」に白丸傍点]、吾生れながらにして知る[#「吾生れながらにして知る」に白丸傍点]、と云つてゐるが、蓋し正直な告白であらうと思ふからである。しかし眞理とか原則とか云ふものは安藤の食物と同じことで一人の私有すべきものでない。凡そ事相を直觀することにより、或は論理を徹底せしむることにより、誰でも到達することの出來る筈のものである。唯其物を知識の形に代へ、言葉の着物を着せることに巧拙があるために、種々の姿となり或は別物の如く思はるることもあるのである。既に佛教に在ては種々な形で相對性の原理を活用し、時には之を亂用して思想の迷宮を作り、人を煙に捲いてゐるのみか、自らも其迷宮に拘束せられて脱出し兼ねてゐる。哲學では知識の相對性として認められ是又種々な哲學者の基礎觀念に取入れられてゐる。又近頃物理學者は總ゆる現象の根本形式なる
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