]十二分に理由を突き止めたと思ふ迄は輕率に蹶起しようとはしなかつたのである。ここに彼の思索の徑路を辿つて少し精しく述べて見よう。
冷靜に世間を觀察すれば、僞善にして蟲の良い輩ら、不公平にして横暴を振舞ふ族ら等、もし神佛が在ましたら早くどうかして貰ひ度いものが頗る多いことが明白になつて來る。萬一其の連中が上に立つて其模範を示される樣なことがあつては全く恐入るべきことであると云はざるを得ない。ところがさうした場合が昔から繰返されがちであるのが世相だと云ふことに氣付いて見たら、正義の士は默しては居られない筈である。安藤は此見地からして、歴史上に現れたる英雄豪傑を引摺出し、秀吉家康を其殿りとして筆誅することに勉めた。丁度誂草と云ふ書物の著者が企てたと同じ樣に廣い範圍に亙つてゐるが、些の戲謔を交へず眞摯一點張で通してゐる。彼がこの種類の問題を主にして起つに至つたとすれば、彼は山縣大貳とか維新の志士とか、或は少し變つて宗教の祖師とかいつた風の人になつたであらう。ところが彼にはそんな問題より尚大事であると考へた事があつた。其事は昔から當然の事と思つて、誰も疑ひを挾まないで過來つたものであるのに、彼は又其事を怪しからぬ事と解し、しかも亦天下此以上重大なる問題なしと考へたところに彼の獨創的の閃きを發揮するのである。
正保の昔し佐倉の義民木内宗吾が刑死した事や、寶暦の當時八幡の暴主金森頼錦が封を失つた事や、又夫等の事件ほど人口に膾炙するに[#「膾炙するに」は底本では「※[#「口+會」、第3水準1−15−25]炙するに」]至らないとは云ひ、所在聞くところのかの百姓一揆と稱するものは、皆治者と被治者の爭ひで實に苦々しい話である。しかし其原因を探つて見れば孰れも苛斂誅求に堪へなかつた農民の不平から起つた事で、根本の理由は生活を劫かされたと云ふ所に歸するから、實に強いので、其ため往々治者が被治者に負ける樣な珍妙な事になるのである。しかしかう云ふ事件を個々の事件として眺めただけでは何時迄も苦々しい事件といふ以外に何等の意味を發見することが出來ないのである。ところが安藤は此種類の事件を日本に起つた個々の事件として見ることの外に、之を一括して人類生存の意義に關する極めて重大なる問題に變形せしめたのである。
諺は中心からの喚びで、何等囚はれざる宣言である。其一つに米は命の親と云ふのがある。人はパ
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