然性を帶びて何等誤りのないものとなるのである。而して歴史の意義は此見方よりして生じ來ることを忘れてはならない。私は今此以上に穿ぐる事は止めるが、安藤は重大なることを見落してゐたことを指摘して置くのである。そこで先づ教法の支柱を失ひ土崩瓦壞に至らんとする社會に、安藤は如何なる應急手當を施すかを見よう。
 安藤は忽ち又互性活眞を振翳すのである。法世を屠つた利劔を以て又之を活かさうとするのである。彼曰く、爭ふ者は必ず斃れる。斃れて何の益があらう。故に我道には爭ひなし[#「我道には爭ひなし」に白丸傍点]。我は兵を語らず[#「我は兵を語らず」に白丸傍点]。我戰はず[#「我戰はず」に白丸傍点]。なるほど互性のものであつて見れば相持でなければならないのであるから爭ふべきものではない。若し爭へば爭ふものの一方が斃れるか、雙方が共斃となるか、又いつまでも爭を繼續するかに極まる。共斃の場合は論外として、一方だけが斃れ、片方が殘つた場合は、互性の見方からすると意味を成さないこととなる。又いつまでも喧嘩する位なら寧ろ早く和睦して互性の實を擧げた方が道にも協ひ幸福でもあるのである。ずつと前に安藤の平和主義は彼の思索の中樞をなしてゐる所から派生し來るのであると云つて置いたが、即ちかうした見方を云つたのである。この見方にも突込んで吟味せなければならない所もあるがお預けとする。却て宇内平和策とか無戰論とかを主張する人、殊に又具體的主義主張を以て爭はんとする人に此見方を勸めて見たい。就ては餘談でもあり適例でもないが、安藤の主張には多少關係があるからお話して見たいことがある。私は前に神の國は不渡手形だと云つた。それで思出したのだが、讀者諸君にも記憶新しいと思ふ。先年大學の新進氣鋭の學者が西洋の左傾派の人の言説を紹介した節、學生が共鳴して一騷ぎを起し當事者と爭つたことがある。其學生の申分は神の國も無政府の如きものであるから、無政府主義もよいではないかと云ふことであつた。其理由となつた神の國は不渡手形であると氣付いたら學生は起たなかつたのであらうし、又一切事物を互性と見たらば、人騷がせをする樣な事は先以て初から起らなかつたのであらう。かれ安藤の如きは無政府虚無主義などを振※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]して喧嘩をするのは子供のする事で、何も大人が子供の眞似をして、打つたのはたいたのと云ふ苦々しい
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