に當つて殺活自在の妙用を發揮せしむるのである。
六 救世觀
凡そ一切の事物は皆互性活眞である。價値も之に洩るるものではない。互性であるから自然の上ではどちらにも重きを置く譯のものではない。雙方相持でなければならない。もし偏重偏輕にして互性の實を擧ぐること出來ないとなれば最早成立を許さない。善惡、美醜、正邪、曲直皆互性なるを以て偏重偏輕を許さざるものとなる。是に於て古今東西の教法は悉く意味を爲さざるものとして、十把一紮げに廢棄せらるるのみか、人を罪に陷るるための惡法なりと迄攻撃せらるるのである。統道眞傳佛失を糺す卷の中に曰く、是れ惡を去れば善もなし。善を去れば惡もなし。左の手は善右の手は惡、右の手を切れば則ち左の手のみにて用を達し難し、大腸に糞ありて惡なり、胸には神ありて善なり。大腸を去り胸のみ之あるべけんや。夜は暗くして惡、晝は明かにして善。夜を去つて晝のみあるべけんや。故に物は善惡にして一物、事は善惡にして一事、轉定にして一體、日月にして一神、男女にして一人なり。自然の妙を知らざる故に勸善懲惡と云ひ、或は衆善奉行諸惡莫作と云ふは甚だ私の失りなり。――諸の聖人釋迦は世を迷はし罪の穴に落し入るること大なる失りなり。と、かく論じ去るのである。此論法は直に又法律にも應用することの出來る性質のものであるから、そこで一切の政法も亦無效なりと申渡さるるのである。かくして法世の教法政法皆悉く互性活眞の蹂躙に委せられ、法律の權威も道徳の尊嚴も遂に三文の價値なしとせらるるに至るのである。
社會から在來の政教を全く取去つたとすれば、後は修羅の巷となるであらうと思ふのは普通の人の考へる所であらうが、之は理論的には必ずしもさうとは取れない。殊に安藤は政教に代ふるに自然の道を以つてし、法世に代ふるに之に優る社會組織を以てしようと考へて居たこと故、政教を蹴飛したのは當然のことで何も惡いこととは思つてゐない。此間に處する彼の信念の篤き意氣の盛なる實に驚歎すべきものがある。しかし是は自惚れから出た暴擧と取れないこともない。何となれば彼は自然を互性とのみ取り、因果と取ることを知らない。全く知らないではないが見方が徹底しない、是は甚しい片手落と云はなければならない。自然を横斷的靜的に觀ずれば彼の云ふところに道理はあるが、之を縱續的動的に觀ずれば一切の事物は因果の形式に現れ來り、皆必
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