相對性を有する者に非らざれば成立することを得ずと考へたのである。この相對性のことを互性の二字で表し、成立の状態を活眞の二字で現はし、茲に於て自然の事物は互性活眞なりと云ふのである。進んでは又これが自然の作用であると云ふ意味で自然眞營道とも稱するのである。
相對が實際に於て成立する以上、決して偶然のものではないので、其兩極を爲してゐる事物は本來不離不即であると云ふ考は自然と起來るのである。此考を統道眞傳の智を論じたる末に述べて曰く、眞道は自然の進退にして一眞道なり。則ち轉定にして一體、日月にして一神、五穀にして一穀、男女にして一人、牝牡にして一疋、雌雄にして一番、善惡にして一物、邪正にして一事、是非にして一理、表裡にして一般、生死にして一道、苦樂にして一心、喜怒にして一情、一切審かに皆二別を見るは即ち一眞營の進退なり。此進退は一眞營なり。安藤はかうした樣な意味のことを到る處に繰返してゐる。
自然眞營道には事物の相對性を自明の理として、殆ど何等説明する所がない。縱に因果的に對峙するもの、横に共存的、反對的、排他的に對するもの、兩斷法によつて生ずるもの等更に選ぶところなく無差別平等に之を互性活眞と稱するのである。又かの不離不即の機制の如きも自然の眞營と稱する以外に何等説明を試みない。實に荒削りの考方である。しかし同じく相對とは云ひ互性活眞には慥に特色がある。どこまでも事物を離れずして、事物其物なりと取つて行く所に、素朴乍らに甚だ力強いものがある。何となれば之を事物に即して見るが故に、事物を離れて存在する絶對を作出す如き見方を自然に防止することが出來るからである。かの哲學は之を知識の上に即して考ふるが故に、動もすれば事物を離るる恐れがあり、相對に對して絶對を誘導成立せしむることは自然の勢ひである。佛教の如きに至つては更に思想の操縱を恣にし、二重三重に相對を振※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]して遂に迷妄に陷つたものである。之を思へば安藤の考方は素朴なるがため却て迷妄に陷るを避け得たもので、彼にとつては實に幸ひであつた。
互性活眞は安藤の到達し得たる思索の極致である。究竟的立場である。法世を壞るも是れ、自然世を造るも是れ、一切事物の生滅は皆この互性活眞に待つものである。是即ち自然の大法であるからである。安藤は之を以て、直に救世の利劔となし、法世を自然世に化成する
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