藤も普通人と同じく自分は親から生れた者ととつた。之を事實ととつたのである。此事實は人間の基礎經驗の中で最も重大なるものであることは何人も認めなければならない。而して之を實際に當て重大視することが遂に孝の教となるのであるから、常識ある人は皆孝を以て萬善の基とする。孔子然り昌益然りである。昌益が曾參を以て人間第一人者と云つたのは外にも重大なる理由はあつたが、矢張此孝に重きを置いたことは云ふ迄もない。孝は事實に基づいたものと知つたら、かの安藤の愛國心も畢竟するに又事實に基づいた自我の觀念の擴張に外ならないことにも想達することが出來よう。そこで世間無我などを唱道したいと思ふ人があつたら、其人は先づ以つて無我を唱ふるにも食物が要ることを考へ、其食物を食ふものは何者だと反省して見るがよい。忽ち無我など云ふことは文字だけの空想に過ぎないことを發見するであらう。之に類する空想は甚だ多い。信仰的、理想的、靈的、神祕的、詩的、藝術的などいふ形容詞のついたことには動ともすると空想が跋扈する恐れがあるのは誰でも氣付くことであらう。しかるにかかる空想に對する憧憬が生ずると、事實を輕視することになつて、其結果種々な不都合を起すことになるのであるから注意を要するのである。
 偖て話は前へ戻る。安藤は自分が親から生れたことを事實ととつたと云ふことは、取りも直さず自分と親との間に成立する彼我相對の關係を事實と認めたのである。ところがかうした彼我相對の事實は客觀的に到る處に見出される。親子がそれである。夫婦がそれである。兄弟がそれである。君臣がそれである。而して孰れも彼我關係が成立してゐるのであるから、二つの中どちらか一つを失つたら、他の一つは全く意味を爲さない事になる。此意味に於て彼我相對の事實は何にも五倫に限つたことではないので、自然に於ける事物は有形無形を問はず、悉く皆かかる對峙をなしてゐるのである。即ち苦樂、和爭、善惡、正邪、信疑、空有、因果等あるとあらゆる事物は皆單獨には考へられないもので、必ず相手があつて成立するものであることが明白となつて來る。もし相對のことが明白でないものがあるならば、之を自他に兩斷する法をとれば相對の事實が現れて來ることは論理を知つてゐる者は直ぐと氣付くことであらう。しかし安藤は是を知識の上に持行くことをせず、總てを事實と取るのである。即ち自然の事物を悉く相對的と見、
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