名を指名するとのことであつた。偖て指名された完全人は誰であつたか。曰く曾參。半人前の人は。曰く陶淵明。
 此人選の仕方を見れば安藤の衷心がよく分る。最早彼を疑ふ必要はあるまい。假令尚狂人であつたとしても、此程度の狂人なら全く安心して交際の出來るものと云はなければならない。されば寧ろ彼を狂人と見ることを止め、變つてはゐるが親しむべき人間であると取るのが至當であらう。
 以上は私が自然眞營道を讀んだ時の記憶を辿り、主として安藤の確信と決意の生じ來つた徑路を示し、兼ねて又彼が危險視すべき人物でなかつた證據を述べたのである。これだけのことを以て見ても彼は容易ならぬ人であつたと云へよう。もしその性行事蹟の詳かなるを知ることが出來たら、一層の興味を呼起すに足ることがあるかも分らない。しかし私はそれ等のことを調べる暇がなかつたので、從つて語るべき多くのものを持たないのを遺憾とする。唯ここに私の知り得た雜多のことを一つ書の如くに列記して、讀者諸君の參考に供することとする。興味を覺え餘暇を持ち自ら穿鑿して見ようと欲する諸君の手懸に利用せらるることあらば幸福の次第である。
 安藤昌益は確龍堂良中と號し、出羽國久保田即ち今の秋田市の人である。
 彼の高弟に南部八戸※[#「危」の「卩」に代えて「矢」、第4水準2−82−22]の醫者神山仙庵といふ人がある。子孫今尚ほ八戸町に現存してはゐるが、火災のため記録類を燒盡して何等傳ふるものがない。
 此外の門人では島盛伊兵衞、北田忠之丞、中村右助皆八戸住である。高橋大和守は南部の人、關立竹、上田祐專、福田六郎、中居伊勢守、澤本徳兵衞、中邑忠平、村井彦兵衞等も亦南部の人であらうと思はれる。
 京都三條柳馬場上に住せる明石龍映、富小路に住せる有來靜香、大阪西横堀の志津貞中、道修町の森映確、江戸本町二丁目の村井中香、奧州須賀川の渡邊湛香、蝦夷松前の葛原堅衞等も亦門人である。香子、定幸、道右衞門等の門人は姓氏が判明しない。
 照井竹泉なる人より安藤に寄せた手紙の文面より推察すれば、此人は先輩であつたらしい。
 自然眞營道の原稿を持傳へた人は北千住町の橋本律藏である。
 以下私は安藤の説の重要なる部分を少しく精細に吟味して見よう。

      四 自然の正しき見方

 自然眞營道なり統道眞傳なりを讀んで見て最初に氣付くことは、自然と云ふ文字の連發である。行列
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