をしてゐると云ふべきか、經緯をなしてゐると云ふべきか、到るところに出て來る。凡そ古今東西の書物で自然と云ふ語をかくも多く用ひてゐるのは斷じて無いと思はれる。此事だけを以て見ても、自然と云ふ事が安藤にとつては如何に大事のものであつたかと云ふことは認めざるを得ない。申す迄もないことだが、自然は安藤ばかりにではなく誰人にも大事なのである。眞に大事ではあるが其あまりに大事であることが祟つて、常人にはその大事である事が往々忘れられる傾きがある。例へば親兄弟や、水や、空氣や、大地や、太陽や、それ其自然其物の有難いことを忘れる樣なことはないとは限らぬであらう。其位のことは能く知つてゐると云ふ人もあらう。如何にも事實としては野蠻人も知つてゐる。しかし文化が開けて來ると忘れる人が出來るやうになり、さては着物とか金とかばかりを有難がり、進んでは思想を有難がり、さうしたものを多く所有する族を尊んだり羨しがつたりして、其結果が親に孝行を盡すことを舊弊と取つたり、米を供給してくれる農民を賤しいものと取つたりする樣なこととなる。是はどうした事ぢや。自然を忘れたからである。有難い自然を忘れ勝になる人に自然の正體を見屆けようなどと努力することは、直接パンなり地位なりを得る助けにもならないことであるから、出來ないことであつて、是はどうしても眞の學者とか聖人とか救世主とでも云ふ人に求むることにしなければならないのであらう。
 然らば聖人格の人は自然の正體を何と見たか。曰く天、大極、無極。曰く眞如生滅。曰く實體。曰く神。まだいくらもある。孰れも考へるには考へたものであらうが、どうも考過ぎて※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りくどい樣に思はるるものが多い。殊に神と云ふ觀念は内存的の場合はまだしもの事、外存的になつて自然を創造したものとすると、貴族的であつたり、不合理、不人情であつたり、甚しきに至つては欺瞞的であるのであるから驚かざるを得ない。是は基督教の神或は又其以上の手腕を有する阿彌陀如來を見ればよく分ることである。勿論説くものよりすれば方便とも取られ、聽くものよりすれば鰯の頭も信心柄と取られ、相對づくで信仰する分には何等差支のないことではあるが、もし實際に當つて其信仰で裏書した神の國の、佛の國のと云ふ不渡手形を振※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]すことになると、馬鹿げた大事件を生ずる恐
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