めの二十三册は破邪之卷、第二十四册は法世之卷、第二十五册は眞道哲論、第二十七册以下は皆顯正之卷となつてゐた。生死之卷もこの顯正之卷の内である。毎卷に確龍堂良中著と記し、寶暦五年に書いた自序の末に鶴間良龍と推讀される書印があつた。其頃は寶暦書目を參考することに氣付かなかつたので、多分鶴間が本名であると思ひ心當りを尋ねて見たが分らう筈がなく、其間に左傾派の人にも洩傳はり、幾分宣傳用に使はれたかとも思はれる。是程の見識を持つてゐた人の本名が知れないのは殘念と思つて、最後の手段として原稿本の澁紙表紙に使用された反故紙を一々剥がしながら調べて見ると、幸ひにも其中から手紙の殘闕が二三發見せられ、其内容から本名が安藤昌益であると推定されたのである。
自然眞營道の原稿本は大正十二年の春東京帝國大學に買上げられ、其年の大震災に燒けてしまつた。かういふ事にならうとは夢思はなかつたので、私も又私から借りて見た二三の友人も、誰あつて抄寫して置かなかつた。彌※[#二の字点、1−2−22]なくなつて見ると、複本を拵へて置けば善かつたと悔んだが始まらない。然るに翌年幸ひにも又安藤昌益の著した統道眞傳と云ふ書物を得ることが出來た。其本は原稿ではなく門人が寫したと思はるるもので、五册あるが完本ではない。此本を獲て幾分損失を恢復した樣な氣がしたものの、此書は門人に示す爲めの抄録のごとく思はれ、概要を瞰ふことは出來るが、内容の上にも修辭の上にも著しい差異があつて、同一人の著述としては甚だ見劣りがするのである。自然眞營道に在つては安藤は畢生の精力を傾注した思索の結果を、百年の後を期して書殘すのである[#「百年の後を期して書殘すのである」に白丸傍点]との用意のもとに筆を採つたものであるから、何等憚る所なく、最も大膽なる敍述をなし得たるため、一體に不文なる安藤も或は同情に驅られ、或は義憤に激せられて忽ち雄辯となり、古來聖人と尊ばれ英雄と崇められたる人物を拉し來つて叱責罵倒の標的となし、氣焔萬丈、全く當るべからざる勢を示し、極端なる場合には敢然決死の態度を以て痛烈肺肝を貫くの言を爲すのであつた。
止むことを得ずして何時でも決死の態度をとつたらうと思はるる彼れ安藤は實は純粹なる平和主義の人であつた。平和を唱へながら直ぐと腕力に訴へる樣な族とは全然其選を異にしてゐたのである。彼の常に云ふ語に、我道には爭ひなし[
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