顫ひ手汗するを禁ぜざらしむるものがあつた。而して其事を記したる所に誰人の優しき心で爲したことであらう、四重五重の張紙があつて、丁寧に家康の名前を覆ひ隱してゐた程である。かかる場面を見せられては彼は所謂曉[#文意から「曉」は「堯」の誤り?]に吠ゆる犬で、慢心の結果眞に狂するに至つたのではなからうかとの疑が出て來たこともあつた。しかし此の如きは全く彼が義憤に焔えた時の有樣で、一面温和な柔順な、そして常識に富み諧謔の餘裕さへも持つてゐたことを確め得たので私は初めて安藤の狂者ならざるを信ずるに至つたのである。今其證據を擧げて見ようと思ふ。
 先づ第一に彼が常識を備へてゐるといふ證據はかの猛烈なる自然眞營道を公表するのを控へたと云ふことが何より雄辯に物語るのである。このことは隨處に話して來たので再説の必要がないと思ふが、之に關聯してゐる問題で取殘されたものがある。そは寶暦書目に載つてゐる自然眞營道の内容は遠※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]的であつたらうと云ふことである。遠※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]的とは内容の性質を指すのではなく效果の上に就て云つたので、例へば少し前に述べて見たところの物理學の理論ばかりを説いたと云つた樣な譯で、主として互性活眞の道理を説明し、人心を刺激する如き具體的の議論を試みなかつたのではないかと云ふのである。即ち始から問題の起る氣遣ひがない樣な態度を取つたらうと云ふことである。もし此推測にして當つてゐるなら、彼が常識を備へてゐたといふ證據は更に裏書された譯であることは言ふ迄もない。
 彼の常識に附帶して彼の愛國心を思ひ出さざるを得ない。是も亦常識を助けて全本の公表を見合せさする一因となつたのではなからうかとの想像は當らずと雖も遠からずであらうと思つてゐる。私は劈頭第一に民族的農本組織と云ふ言葉を使つて置いたが、この民族である。彼が我民族を建てようとの意志熱情は到る處に表はれて實にいたましい程である。彼は神を信ぜず佛を信ぜず又聖人を信ぜず、全く傍若無人の言を弄して憚らざるにも係らず、事苟も我國の利害に關すと見れば、蹶然起つて神國を喚び、此神國をどうする積りであるかと詰責するのである。かくして聖徳太子は異國の佛を信じ儒を尚ぶと云ふ譯で甚だ香ばしからぬ名稱を奉られ、最澄空海の如きは態※[#二の字点、1−2−22]渡唐したあげく、佛教の
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