危險が伴ふと見て棄てることになると、取りも直さず正確なる知識を失ふことになる。正確なる知識を持つことを許されずして、何時實現出來るか分らない理想のみを説く所の精神科學にばかり頼ることになると、頭がどうかなつて、其所に迷ひが出で來り、思想の漢土化天竺化を見る如きことがないとも限らない。夫は甚だ迷惑なことだ。とつくりとかうした所を考へて見て、寧ろ各自此物理學を研究して見たらば如何であらう。どうしても危險でならないと思つたら致方がないことで、其時精神的科學に鞍替しても何等差支のないことと思はれる。しかし人まで勸める態度が惡いとあれば、それは止めることにして、唯自分等同志にのみ物理學を研究することを聽して貰ひたい。とかういふのである。
 右の樣な具合にして折衝を試みたら、大抵妥協が成立するでなからうかと思はれる。いやそれよりか唯物理學の理論のみを發表し、假令如何なる便利の機械の考案が出來てゐても、その實現を見合はすことにしたら始めから問題を起す樣な氣遣がないことは明白である。此處である。思想の衝突でも起つた場合、又衝突を避けようとした場合、お互どうした態度をとつたら、人に迷惑をかけないで濟むかと云ふことが思付くであらう。ところが安藤昌益はチヤンと衝突を避けようとする考へで、始から問題の起る樣な氣遣のない態度を取つたと思はれる。それは次節に入つて説明する。
 安藤が事物の相對性を互性活眞と看破する事により、前人未知の祕を發き無上の道理を獲得したるものと思つたのである。孔子も釋迦も此道理を辨へずして政教を布いたと取り、聽すべからざる暴擧にして直に其無效を主張する。之に反し自分の説くところは自然の妙道より發するもので些の迷妄を交へず、純潔正眞にして全く信頼するに足るものであるが故に、必ず將來世間に行はるること疑ひなしと宣言する。彼はこの主張宣言を自然眞營道の序跋に簡單明瞭に摘載し了つて、遂に自ら眞人であり救世主であると喚んでゐる。

      三 安藤昌益の人物

 安藤昌益は狂人でなかつたか。彼は世人の貴しとする所を貴むことを知らず、増長して自ら眞人救世主と稱するに至つては眞に正氣の沙汰とは取れない。就中尤も人を驚すに足るものは、彼が家康當時神君と崇められた家康に向つた時である。其心術の陋を見るや彼は忽ち惡罵の權化に變じ、峻嚴酷烈其度を超え、叱責罵辱其頂に達し、讀む者をして足
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