白い花崗岩のはげは、窓のところへきて寝ころぶと、前の木の枝の中にある。ここで昼寝をすると、谷川の音が子守歌のように働いて、緑の精がまぶたを撫ててくれる。左手の窓から見ていると、啄木鳥がきて、時々白樺をたたいている。猟師の庄吉さんも、この窓のところへきて、煙草をのみながら話をする。小屋を出て左へちょっと下ると、氷のような水の不断に流れる台所で茶碗も、箸も、投げこめば、自然が洗ってくれる。小屋の左後ろに、一本の立木を利用して屋根をふいた便所がある。蕗の葉を持って、ここに入ると、霞沢岳が小屋の背景になる。雄大な景色で、初めは工合が悪かった。朝ここへ入ると、薄い黎明の日が小屋にあたって、緑の草の上に原始的な小屋が、オレンジ色に、静まりかえって見える。障子が静けさそのもののように、窓をふさいでいる。駒鳥のなきだすのもこの時分からだ。
小屋の生活
朝の温度は驚くほど低い。毛布をはねて蚊帳から出ると、いきなり作業服をきる。ツャツは寝る時から四枚きている。鍋に米を入れて、目をこすりながら、小川に下りると、焼にはまだ雲がかかっている。米をとぐと、たちまち手がこごえ、我慢ができない。糠飯を食うのは有難くないし、みんなの顔が恐ろしい。他の奴はねぼけ眼から涙を出して、かまどを焚いている。煙は朝の光線を小屋の上に、明らかにうつし出してくる。小屋で、焚木のはねる音を聞いてた奴も、やがて起きて掃除している。やがて飯が吹き出して、実なしの汁が、ぐつぐつ煮え始めると、テーブルの上にシーツがしかれて、一同は朝の光線を浴びながらうまい飯を食い始める。食い終って、しばしば山の雲を見ながら話にふけっているが、やがて鍋や茶碗を川に投げこんで、各自勝手なことを始める。本を読む奴、スケッチに行く奴、釣りに行く奴、焚木を背負いに行く奴もある。焼岳や、霞沢、穂高、あるいは田代潮、宮川の池へ行く時は、握飯をつくって、とびだしてしまう。平常は十時ごろになると、誰かが宿屋へ馬鈴薯か豆腐、ねぎを買い出しに行ってくる。石川はむやみと馬鈴薯が好きだ。家では、一日食っているんだそうだ。その代わり、調味は石川が万事ひき受けている。だからコックである。昼は御馳走があるからみんなむきで、こげ飯でもなんでも平げてしまう。昼は大抵、日陰の草の上で食うことにした。この小屋へ入ってから、みんな大変無邪気になった。そうして日がむやみとはやく、飛んで行ってしまった。夕食後は、小屋をしめてみんなで温泉に行く。丸木橋を渡って、歌を唱いながら、六百山の夕日を見ながら、穂高にまつわる雲を仰ぎながら行く。湯気にくもるランプの光で、人夫の肉体美を見ながら、一日の疲労を医す。帰りには、帳場によって、峠を越えてくる人夫を待つのが一番楽しみだ。小包でも着くと大喜びで霞の上に光る星を見ながら、丸木橋を渡ると、白い泡が闇に浮いて、ゴーゴーの音が凄い。
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冬の日記
峠停車場
天地の眠りか 雪に埋るる板谷峠
その沈黙のさなかに スキーは登る
真白き峰々 眠れる谷々
音なく降る雪のはれまに
鉢盛山のやさしき姿
友のさす谷をのぞけば 峠の停車場
雪に埋れり
降りしきる雪の中を スキーは飛ぶ
谷へ谷へ 雪をかぶりし杉の柱
暗き緑の色 その奥は光も暗し
スキーはとく過ぐれど 思いはのこる
夢幻の森
見よ今は スキーの下に 峠駅あり
高き屋根もつプラットホーム
群がる雪かき人夫
疲れし機関車のあえぎ
そのあえぎさえ雪に吸われ
静けさの中に 雪しきりに降る
ああ夢に見し シベリヤの停車場
駅長室に入れば 燃ゆるストーブ
こごえし身も心も 今はとけぬ
松方はいう 気持ちのいい停車場
ウインクレル氏はいう ウィーンの停車場のよう
ストーブをかこみ パンをかじれば
電信器の音は 唯一つの浮世のおとずれ
再び山へ山へ 雪をけってスキーは進む
さらば谷よ わが愛する峠駅よ
ステムボーゲン
先頭の影 谷に吸わると見れば
もちかうる杖のおちつき
ドッペルシテンメンの身体ののび
投げあげし パラシュートの開くごとく
落ちると見えし身体 ひらりと変り
美わしきカーブの跡 彼の姿は崖に消えぬ
二十秒 三十秒
あれ見よ下に 小さくあらわれしあの影を
ああ彼見事に下りぬ わが胸は跳る
いざおりん
もちかうる杖の喜び 山足にうつる重心
つばめのごとき身体のひらき
下りきりて崖を仰げば 日にてらされし
ボーゲンの跡
優美なるそのカーブ わが胸は跳る
直滑降
足をそろえて身体をのばせば スキーは飛ぶ
真白き天地を かの山越えて
天に登るか わが行手何ものもさえぎらず
耳をかすむる風 スキーより
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