をあけたり盛んな運動である。ついに勇敢なる将軍も天地の法則を破るあたわず、雪は滑るものと悟ったか「スキーをぬぐ」と悲鳴をあげた。小林のいわゆる「わっぱ」と自ら名をつけたかんじきをはき、膝まで雪にうずめながら歩きだした。小池もまた大変樹の枝を好む。枝につかまったきり別れを惜しんでいる。あるいはひざまずいて離別の涙を流し、あるいは雪の上に身体を横たえて神代の礼拝をしている。ついに天を仰いで「おれもスキーをぬごうか」という。頭上に板倉が気の毒なような痛快を叫びたいような顔をしながら「ぬぐともぐるぜ」と同情のない言を放つ。くやしそうな表情とともに憤然として小池将軍は立った。勇敢なものだ。やっとこの急なところを登るとよほど楽になる。二町も行くと、わが仰ぐ行手に学校の寄宿舎を集めたような建物が後ろに山を背負って巍然とたっている。その建物はことごとく藁でおおわれていた。ついに十一時過ぎにむしろをめくって、小さな入口から宿屋についた。座敷に通されていきなり炬燵にもぐりこんだ。鉄瓶の音のみが耳に入るただ一つの音である。この静けさはただ雪の世界においてのみ味い得るものだ。三人が顔を見合わせた時に、いままでの奮闘の悲惨と浮世はなれたこの神境の心よさとを感じて笑わないわけには行かなかった。あらゆる都の塵をすっかり洗った心持ちである。昼からいよいよ練習にかかった。宿の前の一町ほどは何の障害もない広場で、傾斜も自由に選べる。ことに雪にはだれの跡方もない。三人の庭であるようにむやみと滑った。小池は棒のごとくまっすぐになってくる。そして相変らず忍術を盛んにやって姿を隠す。そのあとにきっと孔があく。忍術と孔とは何かよほど深い関係があるらしい。小林は制動法の名手である。必ず馬にまたがるごとく落着きはらって滑走する。あれでせきばらいでもされたなら何千万の貔貅《ひきゅう》といえども道を開けるに違いない。板倉の滑り方はなかなかうまいもんだ。うそじゃない。本人がそういっている。雪の上に立って眺めると、遙か前面に鉢盛山がその柔かい雪の線を見せて、その後の雪は夕日にはえて種々な色を見せる。寒さなぞは考えのうちにない。暗くなってから家に入って温泉に入る。トンネルのような岩の下から湯が出ている。馬鹿にぬるいから長く入ってでたらめに声を出す。まだ二日ばかりしないと変に声をふるわす声楽家はこないので少し安心できる。いよいよ寝るとなって枕を見ると鼠色だ。さすがの板倉も降参して、取りかえて貰うと盛んに主張して、女中に交渉したが、洗ってありますとやられてひっこみ、それではこの変な蒲団だけでもと嘆願したら、どうでもいい掛蒲団だけかえてくれたのでまた降参した。やむを得ず手拭いで枕を巻き、タオルで口を予防して三人で炬燵をかこんで神妙に寝た。
十二月二十五日。「もう九時ですぜ」と顔に穴のたくさんあいている番頭さんが火を入れながら枕許で笑った。七時には朝食ができてるんだそうだ。もとより眼鏡は起きない。十時ごろから滑る。昨夜雪が降って昨日のスキーの跡をうめてくれた。小池は今日はどうかして曲れるようになろうと骨を折っている。棒のような身体が右に傾いて行くと思うと、しゃちほこばったまま右に朽木の倒れるごとく倒れる。これは右に廻ろうとするためだそうだ。したがって左も同様である。このくらい思いきりの好い倒れかたは珍しい。真に活溌なものだ。あらためて穿孔虫の名を献ずることにする。この日午後に二高の人が六人ばかりきた。明日からまた穿孔虫がますだろう。恐ろしいことだ。
十二月二十六日。案のごとく穿孔虫がまして孔だらけだ。宿の息子の孝一さんと懇意になった。二十五、六で小林にくらべると小さな、つまり普通の眼鏡をかけている。服装もこっちより完全だ。先輩として尊敬する。棒を五、六本たてて空手でその間を抜けることを練習した。いささか圧倒のきみがあって小林の鼻などは大分のびた。小池は神妙に下で練習している。まだ大きなことはいえないから大丈夫だ。昼から孝ちゃんに連れられて右手の原に行く。土の色などは見たくても見られない。純白な雪があるばかりだ。この二日で土の色は忘れてしまってどこへ倒れても決してよごれない。雪が親しい友達のように思えてきた。この原からはことに連山がよく見える。あらゆる自然の醜なるものをおおったものは雪の天地である。頭上には、広い天がある。眼にうつるものは雪の山々である。マッチ箱のような人間の家が軒と軒とをくっつけてくしゃくしゃにかたまった胸の悪い光景も、紙屑によごれた往来も、臭い自動車もそんなものは影も形もなく消えうせている。夜中のような静けさの中に人間の浮薄をいましめる雪の荘厳がひしひしと迫る。机の上の空論と屁理窟とを木葉微塵にうちくだく大いなる力がこの雪をもって虚偽を悟れと叫んでいる。虚偽を洗えと教えて
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