五色温泉スキー日記
板倉勝宣

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)幽邃《ゆうすい》な景である

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(例)[#地から1字上げ]
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 僕の腹の中にいつの頃からか変な虫が巣を喰っている。十一月頃からこの虫が腹の中で暴れて、雪が食いたい、雪が食いたいとがなりたてる。そうすると身体中の血がにえ返って、雪の天地が目の前にちらついて、いても立ってもいられなくなってくる。試験が終りに近づく時分には、いよいよ暴れ方が烈しくなって早く雪を食わせないと腹の中で何をされるかよほど心配になってきた。僕が虫に襲われた以上、他にも虫喰いがいるはずだ。大変さがして廻ってやっと小池と小林がやっぱり虫喰いなのを見つけだした。三人の虫喰いが上野駅を午後九時の汽車で五色に向かった。以下記するところは虫の言い草で決して僕の考えでない。僕はただ速記者として忠実に筆記するのみである。
 三人の服装を見ると、ジラフのような小池が、上着にしては馬鹿に長いしオーバーにしては馬鹿に短いものを着て、ストッキングをはいている。きっとショートコートとでもいうものだろう。まさか借物じゃあるまい。小林と板倉はまた長いオーバーを着ている。世はままならぬものだ。まるで請負師のようだ。汽車は大変こんで各自盛んにディビッている。いくら切符を同じ値で買っても早い奴とずぶとい奴が席を奪っている。社会の平等を叫ぶ一派の社会主義は、よろしく三等車の席を平等に腰かけられる工夫をして貰いたい。それでもやっと腰を下ろした。小林は汽車が出るともう眠ろうと心がけている。世の中に眠りにきたように心得ている。そのくせ十二時頃から騒ぎ出して人の眠りを妨げた上にトランプを強いた。無暗と騒ぐので四方で迷惑したに違いない。その時は周囲に人がいるのは気がつかなかった。傍若無人とはこれだろう。福島で夜があけた。小池は長い足のやり場に困っている。馬を積む貨車に入れるとよかったがもう仕方がない。これから二台の機関車で前後から持ち上げられるのだ。坂はよほど急だと見えて歩むより遅い。この時分になって小林がまた眠りだした。雪がだんだんと増して汽車は山の懐ろへ懐ろへと進む。汽車の窓には重り合った真白な雪の山と深い谷間を流れる墨画のような谷川が見えて行く。スティームと人いきれで汚れた車内の空気が窓外の景色で洗われたように思われた。瓢箪をさげて見る景ではない。もっと荘厳な、もっと幽邃《ゆうすい》な景である。汽車は雪よけのトンネルを出たり入ったり、静かな雪の世界に響くような音をたてて行く。よほどたってから小林をたたき起すと目をこすりながら「どうだ素敵な雪だ」といまごろ感心している。呆れてものがいえない。七時に雪の塊があるなと思ったら板谷の停車場に着いていた。おろされたものの見当がつかぬ。停車場の前の五色温泉案内所という札をかけた家に、初めて雪の上を歩きながらとびこんだ。気持ちのいい炉辺に坐りこみながら朝食を頼んで、人夫をついでに頼んだ。雪の世界に固有な静けさといかにも落ちついた気分が、小綺麗な炉にも黒ずんだ柱にも認められる。
 まだ五色にはスキーのお客は一人もいないと聞いて大変うれしくなってきた。そのうえ宿屋は千人も宿れるといわれて、少しそら恐ろしいような気にもなった。十時ごろ五色から二人の人夫がスキーで迎えにきてくれた。二町ばかりは雪をはいた線路をつたうので、スキーを抱えながら歩いて行く。左手は線路の下の谷をへだてて真白な山が並んでいる。眼界はことごとく雪である。二つばかりトンネルをくぐって、いよいよ左手の谷に下りることとなった。スキーをつけて下をのぞくと大変急だ。どうも仕方がない。小林と板倉はどうにか首尾よく降りた。さて下に降りて上を仰ぐと、小池の姿が雪の上に巍然《ぎぜん》と聳えている。そのうちになんとなく危げな腰つきだなと見るまに、身体が雪の上を落下してきて雪煙が勇しく立って、小池の姿は見えなくなった。また見えたなと思うと五、六間してまた煙が上る。神出鬼没じつに自由なものだ。やっと三人が揃って、杉の森をぬけて谷川の上に架した釣橋をゆれながら渡ると大変な急な傾斜が頭の上を圧している。その上に雪が柔い。ひどい目に会いそうだと思いながら人夫の後ろから登って行った。案の定大変すべる。もとよりスキーをはいているから滑るつもりできたのだが、登る時に滑るのははなはだ迷惑だ。後滑りする度に見る見るエナージーが減って行くように思える。小林はあの眼鏡とあの立派に発達した足とをもってしても、なおかつ雪の上にわずかに顔を出した樹の枝にすがってあらゆる奮闘をよぎなくされた。枝は一カ所に留っているけれども、スキーは物理の法則通り下に滑る。したがって身体は一カ所でのびたり縮んだり、雪に孔
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