。おおらかな夕べのこの安息のうちに山々は自分たちをとりまいて立っていた。自分たちはこれからこの涸沢のカールの底にある、自分たちにはもう幾晩かのなつかしい憩《いこ》いと眠りのための場所であった、あの岩小屋へと下りてゆくところだった。自分たちの右手の高きには前穂高の巓《いただき》がなおさっき[#「さっき」に傍点]の夕焼の余燼で灼《かが》やいて、その濃い暗紫色の陰影は千人岩の頭《あたま》のうえまでものびていた。そしてはるかの谷にはすでに陰暗な夜の物影がしずかにはいずっていた。自分たちはそのころ漸《ようや》く岩小屋にかえりついたのだった。そして偃松の生枝《なまえだ》をもやしては、ささやかな夕餉《ゆうげ》を終えた時分には、すでに夜は蒼然と自分のまわりをとりかこんできていた。それはまたすばらしくいい夜だった。すてきに星の多い晩だった。高いこの山上をおし包むようにおおきな沈黙がすべてを抱きこんでいた。
 火のそばをすてて、自分たちは岩小屋のなかから外にでた。そしてその前にあった岩にみんなおのずと腰をおろした。冷やかな山上の夜は自分たちのうえに大きくかかっていた。晴れきった漆黒の夜空のなかで、星が鱗屑
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