。おおらかな夕べのこの安息のうちに山々は自分たちをとりまいて立っていた。自分たちはこれからこの涸沢のカールの底にある、自分たちにはもう幾晩かのなつかしい憩《いこ》いと眠りのための場所であった、あの岩小屋へと下りてゆくところだった。自分たちの右手の高きには前穂高の巓《いただき》がなおさっき[#「さっき」に傍点]の夕焼の余燼で灼《かが》やいて、その濃い暗紫色の陰影は千人岩の頭《あたま》のうえまでものびていた。そしてはるかの谷にはすでに陰暗な夜の物影がしずかにはいずっていた。自分たちはそのころ漸《ようや》く岩小屋にかえりついたのだった。そして偃松の生枝《なまえだ》をもやしては、ささやかな夕餉《ゆうげ》を終えた時分には、すでに夜は蒼然と自分のまわりをとりかこんできていた。それはまたすばらしくいい夜だった。すてきに星の多い晩だった。高いこの山上をおし包むようにおおきな沈黙がすべてを抱きこんでいた。
火のそばをすてて、自分たちは岩小屋のなかから外にでた。そしてその前にあった岩にみんなおのずと腰をおろした。冷やかな山上の夜は自分たちのうえに大きくかかっていた。晴れきった漆黒の夜空のなかで、星が鱗屑《うろくず》のようにいろいろの色や光をしてきらめいていた。四人とも黙って岩に腰をかけたまま、じっと何かについて思い込んでいたりパイプばかりくわえて黙っていた。けれどもそれはこのような夜の周囲にはほんとにしっくり[#「しっくり」に傍点]と合った気分だった。山は雨や風の夜のように底鳴りしたりしないので凄《すご》みはなく、圧迫的でもないけれど、あんまりおだやかで静なので、そこにひとつの重味のある沈黙というものを示していた。「山は時としてはその傍観者に自らのムードを圧《お》しつけることがあると同時に、また傍観者はしばしば山が彼《か》れ自らの気分と調和してくれるのを経験することがある」とマンメリイだかが言っていたが、そのときの自分たちの気持はたしかに後者のようなものがあった。自分たちのうしろにも横の方にも、闇のなかに真黒に岩壁や頂がぬっ[#「ぬっ」に傍点]と大きな姿で突っ立っているけれど、自分たちにはこの時はちっとも恐ろしくも見えなければ、もの凄くも思われなく、むしろこのぐるり[#「ぐるり」に傍点]を半分以上もとり巻いている山を、親切な大きな風よけぐらいにしか、親しくおもえてならなかった。そうし
前へ
次へ
全9ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
大島 亮吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング