武蔵野
山田美妙

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)東京《とうけい》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)今|仲《なか》の町《ちょう》で

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(例)※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》いた
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 この武蔵野は時代物語ゆえ、まだ例はないが、その中の人物の言葉をば一種の体で書いた。この風の言葉は慶長ごろの俗語に足利ごろの俗語とを交ぜたものゆえ大概その時代には相応しているだろう。
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 ああ今の東京《とうけい》、昔の武蔵野《むさしの》。今は錐《きり》も立てられぬほどの賑《にぎ》わしさ、昔は関も立てられぬほどの広さ。今|仲《なか》の町《ちょう》で遊客《うかれお》に睨《にら》みつけられる烏《からす》も昔は海辺《うみばた》四五町の漁師町でわずかに活計《くらし》を立てていた。今柳橋で美人に拝まれる月も昔は「入るべき山もなし」、極《ごく》の素寒貧《すかんぴん》であッた。実に今は住む百万の蒼生草《あおひとぐさ》,実に昔は生えていた億万の生草《なまくさ》。北は荒川から南は玉川まで、嘘《うそ》もない一面の青舞台で、草の楽屋に虫の下方《したかた》,尾花の招引《まねぎ》につれられて寄り来る客は狐《きつね》か、鹿《しか》か、または兎《うさぎ》か、野馬ばかり。このようなところにも世の乱れとてぜひもなく、このころ軍《いくさ》があッたと見え、そこここには腐れた、見るも情ない死骸《しがい》が数多く散ッているが、戦国の常習《ならい》、それを葬ッてやる和尚《おしょう》もなく、ただところどころにばかり、退陣の時にでも積まれたかと見える死骸の塚《つか》が出来ていて、それにはわずかに草や土やまたは敝《やぶ》れて血だらけになッている陣幕などが掛かッている。そのほかはすべて雨ざらしで鳥や獣に食われるのだろう、手や足がちぎれていたり、また記標《しるし》に取られたか、首さえもないのが多い。本当にこれらの人々にもなつかしい親もあろう、可愛らしい妻子もあろう、親しい交わりの友もあろう、身を任せた主君もあろう、それであッてこのありさま,刃《やいば》の串《くし》につんざかれ、矢玉の雨に砕かれて異域の鬼となッてしまッた口惜《くちお》しさはどれほどだろうか。死んでも誰にも祭られず……故郷では影膳《かげぜん》をすえて待ッている人もあろうに……「ふる郷《さと》に今宵《こよひ》ばかりの命とも知らでや人のわれをまつらむ」……露の底の松虫もろとも空《むな》しく怨《うら》みに咽《むせ》んでいる。それならそれが生きていた内は栄華をしていたか。なかなかそうばかりでもない世が戦国だものを。武士は例外だが。ただの百姓や商人《あきゅうど》など鋤鍬《すきくわ》や帳面のほかはあまり手に取ッたこともないものが「サア軍だ」と駆《か》り集められては親兄弟には涙の水杯で暇乞《いとまご》い。「しかたがない。これ、忰《せがれ》。死人の首でも取ッてごまかして功名しろ」と腰に弓を張る親父《おやじ》が水鼻を垂《た》らして軍略を皆伝すれば、「あぶなかッたら人の後に隠れてなるたけ早く逃げるがいいよ」と兜《かぶと》の緒を緊《し》めてくれる母親が涙を噛《か》み交《ま》ぜて忠告する。ても耳の底に残るように懐《なつ》かしい声、目の奥に止《とど》まるほどに眤《した》しい顔をば「さようならば」の一言で聞き捨て、見捨て、さて陣鉦《じんがね》や太鼓に急《せ》き立てられて修羅《しゅら》の街《ちまた》へ出かければ、山奥の青苔《あおごけ》が褥《しとね》となッたり、河岸《かし》の小砂利が襖《ふすま》となッたり、その内に……敵が……そら、太鼓が……右左に大将の下知が……そこで命がなくなッて、跡は野原でこのありさまだ。死ぬ時にはさぞ※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》いたろう,さぞ死ぬまいと歯をくいしばッたろう。血は流れて草の色を変えている。魂もまた身体から居どころを変えている。切り裂かれた疵口《きずぐち》からは怨めしそうに臓腑《ぞうふ》が這《は》い出して、その上には敵の余類か、金《こがね》づくり、薄金《うすがね》の鎧《よろい》をつけた蝿《はえ》将軍が陣取ッている。はや乾いた眼の玉の池の中には蛆《うじ》大将が勢揃《せいぞろ》え。勢いよく吹くのは野分《のわき》の横風……変則の匂《にお》い嚢《ぶくろ》……血腥《ちなまぐさ》い。
 はや下※[#「日+甫」、第3水準1−85−29]《ななつさがり》だろう、日は函根《はこね》の山の端《は》に近寄ッて儀式とおり茜色《あかねいろ》の光線を吐き始めると末野はすこしずつ薄樺《うすかば》の隈《くま》を加えて、遠山も、毒でも飲んだかだんだんと紫になり、原の果てには夕暮の蒸発気がしきりに逃水をこしらえている。ころは秋。そこここわがままに生えていた木もすでに緑の上衣を剥《は》がれて、寒いか、風に慄《ふる》えていると、旅帰りの椋鳥《むくどり》は慰め顔にも澄ましきッて囀《さえず》ッている。ところへ大層急ぎ足で西の方から歩行《あるい》て来るのはわずか二人の武者で、いずれも旅行の体《てい》だ。
 一人は五十前後だろう、鬼髯《おにひげ》が徒党を組んで左右へ立ち別かれ、眼の玉が金壺《かなつぼ》の内ぐるわに楯籠《たてこも》り、眉《まゆ》が八文字に陣を取り、唇《くちびる》が大土堤《おおどて》を厚く築いた体、それに身長《みのたけ》が櫓《やぐら》の真似して、筋骨《すじぼね》が暴馬《あれうま》から利足《りそく》を取ッているあんばい、どうしても時世に恰好《かッこう》の人物、自然|淘汰《とうた》の網の目をば第一に脱けて生き残る逸物《いちもつ》と見えた。その打扮《いでたち》はどんなだか。身に着いたのは浅紺に濃茶の入ッた具足で威《おどし》もよほど古びて見えるが、ところどころに残ッている血の痕《あと》が持主の軍馴《いくさな》れたのを証拠立てている。兜はなくて乱髪が藁《わら》で括《くく》られ、大刀疵《たちきず》がいくらもある臘色《ろいろ》の業物《わざもの》が腰へ反《そ》り返ッている。手甲《てこう》は見馴れぬ手甲だが、実は濃菊《じょうぎく》が剥がれているのだ。この体で考えればどうしてもこの男は軍事に馴れた人に違いない。
 今一人は十八九の若武者と見えたけれど、鋼鉄《はがね》の厚兜が大概顔を匿《かく》しているので十分にはわからない。しかし色の浅黒いのと口に力身《りきみ》のあるところでざッと推《すい》して見ればこれもきッとした面体の者と思われる。身長《みのたけ》はひどく大きくもないのに、具足が非常な太胴ゆえ、何となく身の横幅が釣合《つりあ》いわるく太く見える。具足の威《おどし》は濃藍《こいあい》で、魚目《うなめ》はいかにも堅そうだし、そして胴の上縁《うわべり》は離《はな》れ山路《やまみち》であッさり囲まれ、その中には根笹《ねざさ》のくずしが打たれてある。腰の物は大小ともになかなか見事な製作《つくり》で、鍔《つば》には、誰の作か、活き活きとした蜂《はち》が二|疋《ひき》ほど毛彫りになッている。古いながら具足も大刀もこのとおり上等なところで見るとこの人も雑兵《ぞうひょう》ではないだろう。
 このごろのならいとてこの二人が歩行《ある》く内にもあたりへ心を配る様子はなかなか泰平の世に生まれた人に想像されないほどであッて、茅萱《ちがや》の音や狐の声に耳を側《そば》たてるのは愚かなこと,すこしでも人が踏んだような痕の見える草の間などをば軽々《かろがろ》しく歩行《ある》かない。生きた兎が飛び出せば伏勢でもあるかと刀に手が掛かり、死んだ兎が途《みち》にあれば敵の謀計《はかりごと》でもあるかと腕がとりしばられる。そのころはまだ純粋の武蔵野で、奥州街道はわずかに隅田川《すみだがわ》の辺を沿うてあッたので、なかなか通常の者でただいまの九段あたりの内地へ足を踏み込んだ人はなかッたが、そのすこし前の戦争の時にはこの高処《たかみ》へも陣が張られたと見えて、今この二人がその辺へ来かかッて見回すとちぎれた幕や兵粮《ひょうろう》の包みが死骸とともに遠近《あちこち》に飛び散ッている。この体に旅人も首を傾けて見ていたが、やがて年を取ッた方がしずかに幕を取り上げて紋どころをよく見るとこれは実に間違いなく足利《あしかが》の物なので思わずも雀躍《こおどり》した,
「見なされ。これは足利の定紋じゃ。はて心地よいわ」と言われて若いのもうなずいて、
「そうじゃ。むごいありさまでおじゃるわ。あの先年の大合戦の跡でおじゃろうが、跡を取り収める人もなくて……」
「女々《めめ》しいこと。何でおじゃる。思い出しても二方(新田義宗《にッたよしむね》と義興《よしおき》)の御手並み、さぞな高氏《たかうじ》づらも身戦《みぶる》いをしたろうぞ。あの石浜で追い詰められた時いとう見苦しくあッてじゃ」
「ほほ御主《おのし》、その時の軍《いくさ》に出なされたか。耳よりな……語りなされよ」
「かたり申そうぞ。ただし物語に紛れて遅れては面目なかろう。翌日《あす》ごろはいずれも決《さだ》めて鎌倉へいでましなさろうに……後《おく》れては……」
「それもそうじゃ,そうでおじゃる。さらば物語は後になされよ。とにかくこの敗軍の体を見ればいとど心も引き立つわ」
「引き立つわ、引き立つわ、糸のように引き立つわ。和主《おのし》もこれから見参して毎度手柄をあらわしなされよ」
「これからはまた新田の力で宮方も勢いを増すでおじゃろ。楠《くすのき》や北畠《きたばたけ》が絶えたは惜しいが、また二方が世に秀《すぐ》れておじゃるから……」
「嬉《うれ》しいぞや。早う高氏づらの首を斬《き》りかけて世を元弘の昔に復《かえ》したや」
「それは言わんでものこと。いかばかりぞその時の嬉しさは」
 これでわかッたこの二人は新田方だと。そして先年|尊氏《たかうじ》が石浜へ追い詰められたとも言い、また今日は早く鎌倉へこれら二人が向ッて行くと言うので見ると、二人とも間違いなく新田義興の隊《て》の者だろう。応答の内にはいずれも武者|気質《かたぎ》の凜々《りり》しいところが見えていたが、比べ合わせて見るとどうしても若いのは年を取ッたのよりまだ軍《いくさ》にも馴れないので血腥気《ちなまぐさげ》が薄いようだ。
 それから二人は今の牛《うし》ヶ|淵《ふち》あたりから半蔵の壕《ほり》あたりを南に向ッて歩いて行ったが、そのころはまだ、この辺は一面の高台で、はるかに野原を見通せるところから二人の話も大抵|四方《よも》の景色から起ッている。年を取ッた武者は北東に見えるかたそぎを指さして若いのに向い、
「誠に広いではおじゃらぬか。いずくを見ても原ばかりじゃ。和主《おのし》などはまだ知りなさるまいが、それあすこのかたそぎ、のうあれが名に聞ゆる明神じゃ。その、また、北東には浜成たちの観世音があるが、ここからは草で見えぬわ」
「浮評《うわさ》に聞える御社《みやしろ》はあのことでおじゃるか。見れば太《いと》う小さなものじゃ」
「あの傍《そば》じゃ、おれが、誰やらん逞《たく》ましき、敵の大将の手に衝《つ》き入ッて騎馬を三人打ち取ッたのは。その大将め、はるか対方《むこう》に栗毛《くりげ》の逸物に騎《の》ッてひかえてあったが、おれの働きを心にくく思いつろう、『あの武士《さむらい》、打ち取れ』と金切声立てておッた」
「はははは、さぞ御感《ぎょかん》に入りなされたろう、軍が終ッて。身に疵をば負いなされたか」
「四カ所負いたがいずれも薄手であッた。とてもあのような乱軍の中では無疵であろう者はおじゃらぬ。もちろん原で戦うのじゃから、敵も味方もその時は大抵騎馬であッた。が味方の手綱には大殿(義貞《よしさだ》)が仰せられたまま金鏈《かなぐさり》が縫い込まれてあッたので手綱を敵に切り離される掛念《けねん》はなかッた。その時の二の大将(義興)の打扮《いでたち》は目覚
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