《めざ》ましい物でおじゃッたぞ」
「一の大将(義宗)もおじゃッたろう」
「おじゃッた。この方《かた》もおなじような打扮ではおじゃッたが、具足の威《おどし》がちと濃かッたゆえ、二の大将ほど目立ちなさらなかッた」
 折から草木を烈しく揺《ゆ》ッて野分の風が吹いて来た。野原の急な風……それはなかなか想像のほかで、見る間に草の茎や木の小枝が砂と一途《いっしょ》にさながら鳥の飛ぶように幾万となく飛び立ッた。そこで話もたちまち途切《とぎ》れた。途切れたか、途切れなかッたか、風の音に呑《の》まれて、わからないが、まずは確かに途切れたらしい。この間の応答のありさまについてまたつらつら考えれば年を取ッた方はなかなか経験に誇る体があッて、若いのはすこし謹み深いように見えた。そうでしょう、読者諸君。
 その内に日は名残《なご》りなくほとんど暮れかかッて来て雲の色も薄暗く、野末もだんだんと霞《かす》んでしまうころ、変な雲が富士の裾《すそ》へ腰を掛けて来た。原の広さ、天《そら》の大きさ、風の強さ、草の高さ、いずれも恐ろしいほどに苛《いか》めしくて、人家はどこかすこしも見えず、時々ははるか対方《むこう》の方を馳《は》せて行く馬の影がちらつくばかり、夕暮の淋《さみ》しさはだんだんと脳を噛んで来る。「宿るところもおじゃらぬのう」「今宵は野宿するばかりじゃ」「急ごうぞ」「急ぎゃれ」これだけの応答が幾たびも試験を受けた。
「馬が走るわ。捕えて騎《の》ろうわ。和主《おのし》は好みなさらぬか」
「それ面白や。騎ろうぞや。すわやこなたへ近づくよ」
 二人は馬に騎ろうと思ッて、近づく群をよく視《み》ればこれは野馬の簇《むれ》ではなくて、大変だ、敵、足利の騎馬武者だ。
「はッし、ぬかッた、気がつかなかッた。馬じゃ……敵じゃ……敵の馬じゃ」「敵は多勢じゃ、世良田《せらだ》どの」「味方は無勢じゃ、秩父《ちちぶ》どの」「さても……」「思わぬ……」敵はまぢかく近寄ッた。
「動くな、落武者。知らぬか、新田義興は昨日矢口で殺されてじゃ」
「なに、二の君が」
「今さら知ッたか、覚悟せよ」
 跡は降ッた、剣《つるぎ》の雨が。草は貰《もら》ッた、赤絵具を。淋《さみ》しそうに生まれ出る新月の影。くやしそうに吹く野の夕風。

     中

「山里は冬ぞさみしさまさりける、人目も草もかれぬと思へば」秋の山里とてその通り、宵ながら凄《すご》いほどに淋しい。衣服《きもの》を剥がれたので痩肱《やせひじ》に瘤《こぶ》を立てている柿《かき》の梢《こずえ》には冷笑《あざわら》い顔の月が掛かり、青白く冴《さ》えわたッた地面には小枝《さえだ》の影が破隙《われめ》を作る。はるかに狼《おおかみ》が凄味の遠吠《とおぼ》えを打ち込むと谷間の山彦がすかさずそれを送り返し,望むかぎりは狭霧《さぎり》が朦朧《もうろう》と立ち込めてほんの特許に木下闇《こしたやみ》から照射《ともし》の影を惜しそうに泄《も》らし、そして山気は山颪《やまおろし》の合方となッて意地わるく人の肌《はだ》を噛んでいる。さみしさ凄さはこればかりでもなくて、曲りくねッたさも悪徒らしい古木の洞穴《うろ》には梟《ふくろ》があの怖《こわ》らしい両眼で月を睨《にら》みながら宿鳥《ねとり》を引き裂いて生血《なまち》をぽたぽた……
 崖下《がけした》にある一構えの第宅《やしき》は郷士の住処《すみか》と見え、よほど古びてはいるが、骨太く粧飾《かざり》少く、夕顔の干物《ひもの》を衣物《きもの》とした小柴垣《こしばがき》がその周囲《まわり》を取り巻いている。西向きの一室《ひとま》、その前は植込みで、いろいろな木がきまりなく、勝手に茂ッているが、その一室はここの家族が常にいる室《ま》だろう、今もそこには二人の婦人が……
 けれどまず第一に人の眼に注《と》まるのは夜目にも鮮明《あざやか》に若やいで見える一人で、言わずと知れた妙齢《としごろ》の処女《おとめ》。燈火《ともしび》は下等の蜜蝋《みつろう》で作られた一里一寸の松明《たいまつ》の小さいのだからあたりどころか、燈火を中心として半径が二尺ほどへだたッたところには一切闇が行きわたッているが、しかし容貌《かおだち》は水際だッているだけに十分若い人と見える。年ごろはたしかに知れないが眼鼻や口の権衡《つりあい》がまだよくしまッていないところで考えればひどく長《た》けてもいないだろう。そのくせに坐《すわ》り丈《ぜい》はなかなかあッて、そして(少女《おとめ》の手弱《たよわ》に似ず)腕首が大層太く、その上に人を見る眼光《めざし》が……眼は脹目縁《はれまぶち》を持ッていながら……、難を言えば、凄い……でもない……やさしくない。ただ肉が肥えて腮《あご》にやわらかい段を立たせ、眉が美事《みごと》で自然に顔を引き立たせたのでやや見どころがあるように見える。そのすこし前までは白菊を摺箔《すりはく》にした上衣を着ていたが、今はそれを脱いでただ蒲《がま》の薄綿が透いて見える葛《くず》の衣物《きもの》ばかりでいる。
 これと対《むか》い合ッているのは四十前後の老女で、これも着物は葛だが柿染めの古ぼけたので、どうしたのか砥粉《とのこ》に塗《まみ》れている。顔形、それは老若の違いこそはあるが、ほとほと前の婦人と瓜二《うりふた》つで……ちと軽卒な判断だが、だからこの二人は多分|母子《おやこ》だろう。
 二人とも何やら浮かぬ顔色で今までの談話《はなし》が途切れたような体であッたが、しばらくして老女はきッと思いついた体で傍の匕首《あいくち》を手に取り上げ、
「忍藻《おしも》、和女《おこと》の物思いも道理《ことわり》じゃが……この母とていとう心にはかかるが……さりとて、こやそのように、忍藻|太息《といき》吐《つ》くようでは、太息のみ吐いておるようでは武士《もののふ》……実《まこと》よ、世良田三郎の刀禰《とね》の内君には……聞けよ、この母の言葉を,見よ、この母の衣《きぬ》を。和女はよも忘れはせまい、和女には実《まこと》の親、おれには実の夫のあの民部の刀禰がこたび二の君の軍に加わッて、あッぱれ世を元弘の昔に復《かえ》す忠義の中に入ろうとて、世良田の刀禰もろとも門出した時、おれは、こや忍藻、おれは何して何言うたぞ。おれが手ずから本磨《ほんと》ぎに磨ぎ上げた南部鉄の矢の根を五十筋、おのおのへ二十五筋、のう門出の祝いと差し出して、忍藻聞けよ――『二方の中のどなたでも前櫓で敵を引き受けなさるならこの矢の根に鼻油引いて、兜の金具の目ぼしいを附けおるを打ち止めなされよ。また殿《しんがり》で敵に向いなさるなら、鹿毛《かげ》か、葦毛《あしげ》か、月毛か、栗毛か、馬の太く逞《たくま》しきに騎《の》った大将を打ち取りなされよ。婦人《おなご》の甲斐《かい》なさ、それよ忠義の志ばかりでおじゃるわ』とこの眼《まなこ》から張り切りょうずる涙を押えて……おおおれは今泣いてはいぬぞ、忍藻……おれも武士《もののふ》の妻あだに夫を励まし、聟《むこ》を急《せ》いたぞ。そを和女、忍藻も見ておじゃったろうぞのう。武士の妻のこころばえはかほどのうてはならぬわ。さればこそ今日までも休まず、夫と聟とは家にはおらぬが、おれが矢の根を日々磨ぎ澄まして、おなじ忠義の刀禰たちに与うるのじゃ。こう衣《きぬ》は砥粉に塗れてもなかなかにうれしいぞイ、さすれば」
「まことよ。仰せは道理《ことわり》におじゃる。妾《わらわ》とてなど……」
「心からさならこの母もうれしいわ。見よ、のう、この匕首を。門出の時、世良田の刀禰が和女にこを残して再会の記念《かたみ》となされたろうよ。それを見たらよしない、女々しい心は、刀禰に対して出されまい。和女とて一わたりは武芸をも習うたのに、近くは伊賀局《いがのつぼね》なんどを亀鑑《かがみ》となされよ。人の噂《うわさ》にはいろいろの詐偽《いつわり》もまじわるものじゃ。軽々しく信《う》ければ後に悔ゆることもあろうぞ」
 言いきって母は返辞を待皃《まちがお》に忍藻の顔を見つめるので忍藻も仕方なさそうに、挨拶《あいさつ》したが、それもわずかに一言だ。
「さもそうず」
 母もおぼつかない挨拶だと思うような顔つきをしていたがさすがになお強《し》いてとも言いかね、やがてやや傾《かたぶ》いた月を見て、
「夜も更《ふ》けた。さらばおれはこれから看経《かんきん》しょうぞ。和女《おこと》は思いのまにまに寝《い》ねよ」
 忍藻がうなずいて礼をしたので母もそれから座を立って縁側伝いに奥の一間へようよう行ッた。跡に忍藻はただ一人|起《た》ッて行く母の後影を眺《なが》めていたが、しばらくして、こらえこらえた溜息《ためいき》の堰《せき》が一度に切れた。
 話の間だがちょッとここで忍藻の性質や身の上がやや詳細《つまびらか》に述べられなくてはならない。実に忍藻はこの老女の実子で、父親は秩父民部とて前回武蔵野を旅行していた旅人の中の年を取った方だ。そして旅人の若い方はすなわち世良田三郎で、母親の話でも大抵わかるが、忍藻にはすなわち夫だ。
 この三郎の父親は新田義貞の馬の口取りで藤島の合戦の時主君とともに戦死をしてしまい、跡にはその時|二歳《ふたつ》になる孤子《みなしご》の三郎が残っていたので民部もそれを見て不愍《ふびん》に思い、引き取って育てる内に二年の後忍藻が生まれた。ところが三郎は成長するに従って武術にも長《た》けて来て、なかなか見どころのある若者となったので養父母も大きに悦《よろこ》び、そこでそれをついに娘の聟にした。
 その時三郎は十九で忍藻は十七であった。今から見ればあまりな早婚だけれど、昔はそのようなことにはすこしも構わなかった。
 それで若夫婦は仲よく暮していたところが、ふと聞けば新田義興が足利から呼ばれて鎌倉へ入るとの噂があるので血気盛りの三郎は家へ引き籠もって軍《いくさ》の話を素聞きにしていられず、舅《しゅうと》の民部も南朝へは心を傾けていることゆえ、難なく相談が整ってそれから二人は一途《いッしょ》に義興の手に加わろうとて出立し、ついに武蔵野で不思議な危難に遇《あ》ったのだ。その危難にあったことが精密ではないが、薄々は忍藻にも聞えたので、さアそれが忍藻の心配の種になり、母親をつかまえて欝《ふさ》ぎ出すのでそこで前のとおり母親もそれを諭《さと》して励ましていた。
「門前の小僧は習わぬ経を誦《よ》む」鍛冶屋の嫁は次第に鉄の産地を知る。三郎が武術に骨を折るありさまを朝夕見ているのみか、乱世の常とて大抵の者が武芸を収める常習《ならわし》になっているので忍藻も自然太刀や薙刀《なぎなた》のことに手を出して来ると、従って挙動も幾分か雄々しくなった。手首の太いのや眼光《めざし》のするどいのは全くそのためだろう。けれど今あからさまにその性質を言おうなら、なるほど忍藻はかなり武芸に達して、一度などは死にかかっている熊《くま》を生捕りにしたとて毎度自慢が出たから、心も十分|猛々《たけだけ》しいかと言うに全くそうでもない。その雄々しく見えるところはただ時々の身の挙動《こなし》と言葉のありさまにあったばかりで、その婦人に固有の性質は(ことに心の教育のない婦人に固有の性質は)跡を絶ってはいない,たしかになくなってはいない。
 母が立ち去った跡で忍藻は例の匕首《あいくち》を手に取り上げて抜き離し、しばらくは氷の光をみつめてきっとした風情であったが、またその下からすぐに溜息が出た,
「匕首、この匕首……さきにも母上が仰せられたごとくあの刀禰の記念《かたみ》じゃが……さてもこれを見ればいとどなお……そも刀禰たちは鎌倉まで行き着かれたか、無難に。太《いと》う武芸に長《た》けておじゃるから思いやるも女々しけれど……心にかかるは先ほどの人々の浮評《うわさ》よ。狭い胸には持ちかねて母上に言い出づれば、あれほどに心強うおじゃるよ。看経も時によるわ、この分《わ》きがたい最中《もなか》に、何事ぞ、心のどけく。そもこの身の夫のみのお身の上ではなくて現在母上の夫さえもおなじさまでおじゃるのに……さてもさても。武士《もののふ》の妻はかほどのうてはと仰せられてもこの
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