身にはいかでかいかでか。新田の君は足利に計られて矢口とやらんで殺されてその手の者は一人も残らず……ああ胸ぐるしい浮評じゃわ。三郎の刀禰は、そうよ、父上もそこを逃れなされたか。門出の時この匕首をこの身に下されて『のう、忍藻、おこととおれとは一方ならぬ縁《えにし》で……やがておれが功名して帰ろう日はいつぞとはよう知れぬが、和女《おこと》も並み並みの婦人《おんな》に立ち超《こ》えて心ざまも女々しゅうおじゃらぬから由ない物思いをばなさるまい。その時までの記章《かたみ》にはおれが秘蔵のこの匕首(これにはおれの精神《たましい》もこもるわ)匕首を残せば和女もこれで煩悩《ぼんのう》の羈《きずな》をばのう……なみだは無益《むやく》ぞ』と日ごろからこの身はわれながら雄々しくしているに、今日ばかりはいかにしてこう胸が立ち騒ぐか。別離《わかれ》の時のお言葉は耳にとまって……抜き離せばこの凄い業《わざ》もの……発矢《はっし》、なみだの顔が映るわ。この涙、ああらこの身の心はまださほど弱うはなるまいに……涙ばかりが弱うて……昨夜《ゆうべ》見た怖い夢は……ああ思い入ればいとどなお胸は……胸は湧《わ》き起《た》つわ。矢口とや、矢口はいずくぞ。翼さえあらばかほどには……」
思い入ってはこらえかねてそぞろに涙をもよおした。無論荒誕のことを信ずる世の人だから夢を気にかけるのも無理ではない。思えば思うほど考えは遠くへ走って、それでなくてもなかなか強い想像力がひとしお跋扈《ばっこ》を極めて判断力をも殺《そ》いた。早くここでその熱度さえ低くされるなら別に何のこともないが、なかなか通常の人にはそのように自由なことはたやすく出来ない。不思議さ、忍藻の眼の中には三郎の俤《おもかげ》が第一にあらわれて次に父親の姿があらわれて来る。青ざめた姿があらわれて来る。血、血に染みた姿があらわれて来る。垣根に吹き込む山おろし、それも三郎たちの声に聞える。ボーン悩と鳴る遠寺の鐘、それも無常の兆《きざし》かと思われる。
人に見られて、物思いに沈んでいることを悟られまいと思って、それから忍藻は手近にある古今集を取っていい加減なところを開き、それへ向って字をば読まずに、いよいよ胸の中に物思いの虫をやしなった。
「『題知らず……躬恒《みつね》……貫之《つらゆき》……つかわしける……女のもとへ……天津《あまつ》かりがね……』おおわれ知らず
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