するに至つては之を不可とせざる乎《か》。天知子の利休を論ずるに曰ふ、
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大象いかで兎径に遊ばん、老荘は到底孔孟の伴侶にあらず。人世の活文章を誠一片にて組立てんとするの小智を笑ひ、道徳律義の繩墨のみを以て活人を料理せんとするの狭量を愍《あは》れみ、為さんとするの善は多く偽善たるを免かれず。去らんと苦心するの悪は多く縮局せる狐疑善を脱せず、無為恬淡として自然に帰るを道とす、
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と請ひ問ふ、所謂《いはゆる》自然に帰るとは何ぞや、人既に世に生れたり、自然と離れたり、自然の上を超《こ》へて立てり。如何にして自然に返るべき人の智識果して小智なるや否を知らず、人の善果して狐疑善たるや否を知らず、然れども個人は個人の信ずる所を為し、個人の行くべき所を行くべきに非ずや。宇宙の大経綸は吾人の小智小善が相集りて成れる者に非ずや。若し自然に還《かへ》ると云ふことを以て孔子が所謂身を殺して仁を為すもの也、パウロが所謂もはや吾|活《い》くるに非ず、基督吾れに在りて活くる者也と云はゞ可也。
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形骸に拘々《こう/\》せず、小智に区々せず、清濁のまに/
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