\呑み尽《つく》し、始めて如来禅を覚了すれば万行体中に円《まど》かなり。 (天知子)
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と説くに至つては個人全く死せる也。個人の品位を認識せざる也。
(二)事業を賤《いや》しむこと、吾人は信ず時《タイム》を離れて永遠《ヱタルニチー》なし、事業を離れて修徳なしと。時は即ち永遠の一部に非ずや、事業は即ち修徳の一部に非ずや、永遠の為めに現時を賤しむ者、修徳の為めに事業を軽んずる者は是れ矛盾《パラドッキシカル》の論法也。昔しは朱子理気の学を以て一代の儒宗たりしかども、猶且当世の務を論ずることを忘れざりき。今日の為めにする即ち永遠の為めにする也、己れの目前に置かれたる事業を喜んで為す、是れ修徳也。所謂善人善を為す惟日も足らざる者、一日の中には一日の事ある者是也、之れを思はずして、徒《いたづ》らに事業を賤しみ、之を俗人の事となし、超然として物外に※[#「彳+淌のつくり」、第3水準1−84−33]※[#「彳+羊」、第3水準1−84−32]《しやうやう》せんとするに至つては抑《そもそ》も亦名教の賊に非ずや。
 透谷氏芭蕉池辺明月の什《じふ》を論じて曰く
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