る也。
 頼春水大阪江戸港に在りて教授を業とす。年三十三にして室飯岡氏襄を生む、時に安永九年なり。正に是れ光格天皇御即位の年、江戸の将軍徳川家治の在職十九年、田沼|意次《おきつぐ》父子君寵を恃《たの》んで威権|赫灼《かくしやく》たる時となす。
 王政復古の頂言者、文運改革の指導者たる大詩人は斯《かく》の如くにして生れたり。呱々《こゝ》乳を索《もと》むる声、他年変じて社会を呼醒し、人心を驚異せしむる一大|喚※[#「口+斗」、277−上−10]《くわんけう》と変ずべしとは唯天のみ之を知りたりき。
 明《あく》れば天明元年、春水本国広島藩の聘《まねき》に応じて藩学の教授となれり。其婦と長子とを携へて竹原に帰り父を省し、更に厳島《いつくしま》の祠に詣づ、襄は襁褓《むつき》の中に龕前《がんぜん》に拝せり。竹原は広島の東十里に在り煙火蕭条の一邑《いちいふ》にして頼氏の郷里たり。春水の始めて仕《つか》ふるや当時藩学新たに建つに会し建白して程朱《ていしゆ》の学を以て藩学の正宗となさんと欲す。議者其偏私を疑ひしかば彼は学統論を作りて其非難を弁駁《べんばく》せり。
 春水の斯の如くに程朱の一端に奔《はし》
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