年十八、叔父頼杏坪に従つて東遊し昌平黌《しやうへいくわう》に学び尾藤二洲の塾に在り。此行一の谷を過ぎて平氏を吊《とむら》ひ、湊川《みなとがは》に至りて楠氏の墳に謁し、京都を過ぎて帝京を見、東海道を経て江戸に入る。到る処俯仰感慨、地理に因りて歴史を思ひ、歴史に因りて地理を按じ、而して其の吐て詩藻となるもの乃ち宛然たる大家の作也。孤鴻既に※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]群に投ず、彼の才の雄なる同学の諸友をして走り且|僵《たふ》れしめたるや想見するに堪《た》へたり。彼が線香一※[#「火+(麈−鹿)」、第3水準1−87−40]の間を課して四言三十首を作り以て其才を試みしは実に当時に在りとす。
読者若し渠《かれ》が楠河州を詠じたるの詩を読まば如何に勤王の精神が渠の青年なる脳中に沸々《ふつ/\》たるかを見ん。渠をして此処《こゝ》に至らしめたるものは何ぞや。嗚呼是れ時勢なるのみ。夫の勤王に狂せる上野の処士高山彦九郎は昔し嘗《かつ》て春水と相|識《し》るものなりき。而して彼が寄[#二]語海内[#(ノ)]豪傑[#(ニ)][#一]好在而已と遺言して筑後に自殺したるは実に寛政五年にして襄が年十四の時なりき。蓋し元和|偃武《えんぶ》以来儒学の発達と共に勤王の精神は発達し来り、其勢や沛然《はいぜん》として抗すべからず、或は源|光圀《みつくに》をして楠氏の碑を湊川に建てしめ、或は新井白石をして親皇宣下の議を呈出せしめ、或は処士竹内式部をして公卿の耳にさゝやひて射を学び馬を馳せしめ、或は兵学者山県大弐をして今の朝廷は覊囚の如しと歎息せしめ、或は本居宣長となりて上代朝廷の御稜威を回想せしめ、或は蒲生君平となりて涙を山陵の荒廃|堙滅《いんめつ》に濺《そゝ》がしめ、勤王の一気は江戸政府の鼎猶隆々たる時に在りて既に日本の全国に磅※[#「石+(くさかんむり/溥)」、第3水準1−89−18]《はうはく》したりき。寛政四年即ち彦九が死せし前年に方《あた》りて柴野栗山大和に遊び神武天皇の御陵を訪ひ慨然として歌ふて曰く遺陵纔向[#二]里民[#一]求、半死孤松数畝丘、非[#レ]有[#三]聖神開[#二]帝統[#一]、誰教[#三]品庶脱[#二]夷流[#一]、廐王像設専[#二]金閣[#一]、藤相墳塋層[#二]玉楼[#一]、百代本支麗不[#レ]億、幾人来[#レ]此一回頭。而して自ら陪臣邦彦と署す。襄や実に斯の如き時勢に生れたり。宜《むべ》なるかな彼が勤王の詩人として起《た》ちしや。夫れ英雄豪傑は先づ時勢に造られて、更に時勢を造るもの也。襄の幼き耳は勤王の声に覚されたり、而して彼は更に大声之を叫んで以て他の未だ覚めざるものを覚さんとせり。
跂《き》なる儒者尾藤二洲は春水の妻の姉妹を妻として春水と兄弟の交ありき。襄後年彼を評して曰く雅潔簡遠と。彼の人と為り実に斯の如くなりき。彼は今春水より其|鳳雛《ほうすう》を托せられたり、彼は喜んで国史を談じたりき、而して是実に襄の聞くを喜ぶ所なりき。夕日西に沈んで燈を呼ぶ時、一個の老人年五十二、一個の少年と相対して頻《しき》りに戦国の英雄を論ず。一上一下口角沫を飛ばして大声壮語す。二更、三更にして猶且|輟《とゞ》めざるなり、往々にして五更に至る。時に洒然《しやぜん》たる一老婦人あり室に入り来り少年を叱して去らしむ。老人顧みて笑ふ。当時会話の光景蓋し斯の如し。
襄亦柴野栗山を訪へり。襄が栗山に於ける因縁誠に浅からざるなり。今にして相遇ふ多少の感慨なからんや。栗山問ふて曰く、綱目を読みしや否や、答へて曰く未だ尽《こと/″\》く読む能はずと雖も只其大意を領せりと。嗚呼唯大意を領せりの一句即ち襄が終身の読書法也。栗山|頷《うなづき》て曰く可也。
襄江戸に在る一年にして去れり。而して彼は終に再び江戸の地を履《ふ》むことを得ざりし也。彼の還るや時正に初夏東山道を経て帰れり。夾山層巒翠※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28][#レ]天、濛々山駅雨為[#レ]煙、蓋し当時の光景也。
父は光れり、子は曇れり。久太郎義近年兎角放縦に有之浪遊に耽り候故、親戚朋友切誠懇諭も仕候得共不相改、当月五日竹原大叔父病死仕候に付為弔礼家来添差遣仕候処途中より逐電仕候と悲しむべき報知の頼杏坪より九月十九日付にて其友篠田剛蔵に達したるときは正に是れ春水が赤崎元礼と共に特典を以て昌平黌に経を説きし年なりき。宿昔青雲の志今や漸く伸びて声名海内に揚れる時に方りて、其愛子は、特に竜駒鳳雛として、望を交友より属せられたる愛子は、蕩児《たうじ》とならんとせり。一栄、一辱、一喜、一憂、世態大概斯くの如し。然れども頼家も日本も頼襄が一たび血気の誘惑に遇ひしが為めに多く損ずる所あらざりし也。当時大坂の中井履軒は襄を責めて不孝の子なりとなし相見ることを許さず
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