の襄は長じて童子となれり、教育は始められたり。藩学に通へる一書生は彼が句読の師として、学校より帰る毎に彼の家に迎へられたり。而して母氏も亦女紅の隙を以て其愛児を教育せり。後来の大儒は屡※[#二の字点、1−2−22]《しば/\》温習を懈《おこた》り屡※[#二の字点、1−2−22]睡れり。聡明なる児童には唯器械的に注入せらるゝ句読の如何《いか》に面白からざりしよ! 彼は此時より他の方向に向つて自ら教育することを始めたり。彼は論孟を抛《なげう》ちて絵本を熟視せり。義経、弁慶、清正の絵像を見てあどけなき英雄崇拝の感情を燃せり。嗚呼《あゝ》是れ渠が生涯の方角を指定すべき羅針に非ずや、彼は童子たる時より既に空文を厭ひて事実を喜べり。
此頃政治世界の局面は松平定信に因りて一変せり。将軍家治の晩年は正に是れ天下災害|頻《しき》りに至るの時なりき。天明三年襄年四歳信州浅間山火を発し灰関東の野を白くし、次で天下大に飢へ、飢民蜂起して富豪を侵掠す。若し英雄ありて時を済《すく》はずんば天下の乱近くぞ見へにける。是より先き定信安田家より出でゝ白河の松平氏を継ぎ、賢名あり、年|饑《う》ゆるに及んで部内の田租を免じ婢妾を放ち節倹自ら治む。寛政七年元旦慨然として歌ふて曰く少小欲[#レ]為[#二]天下器[#一]、誤将[#二]文字[#一]被[#二]人知[#一]、春秋回首二十七、正是臥竜始起時。此年家治|薨《こう》じ家斉十五歳の少年を以て将軍職を嗣《つ》げり。時勢は定信を起して老中となせり。定信|起《た》てり、先づ従来の弊政を矯《た》め、文武を励まし、節倹を勤め、以て回復を謀《はか》れり。当時松平越州の名児童走卒も亦皆之を知る。襄も亦其小さき耳の中に越州なる名詞を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]んで忘るゝ能はざりしなり。誰れか図らん後来此人乃ち襄が著書を求むるの人ならんとは、人間の遭際|固《もと》より夷の思ふ所にあらず。
頼氏は寧馨児《ねいけいじ》を有せり。襄の学業は駸々《しん/\》として進めり。寛政三年彼れ年十二、立志編を作りて曰く噫男児不[#レ]学則已、学当[#レ]超[#レ]群矣、古之賢聖豪傑、如[#二]伊傅[#一]如[#二]周召[#一]者亦一男児耳、吾雖[#レ]生[#二]于東海千歳之下[#一]、生幸為[#二]男児[#一]矣、又為[#二]儒生[#一]矣、安可[#レ]不[#下]奮発立[#レ]志以答[#二]国恩[#一]、以顕[#中]父母[#上]哉。翌年春水の祗役《しえき》して江戸に在るや、襄屡※[#二の字点、1−2−22]書を広島より寄せて父の消息を問ふ、書中往々其詩を載す。春水が交遊する所の諸儒皆舌を巻きて其|夙才《しゆくさい》を歎ぜり。薩州の儒者赤崎元礼、襄の詩を柴野栗山に示す。栗山は儒服せる豪傑なり、事業を以て自ら任ずる者也。襄後年之を評して曰く奇にして俊と。彼は固より英才を詩文の中に耗《へ》らすことを屑《いさぎよ》しとせざりき。今や友人春水の子俊秀|斯《かく》の如きを見て、彼は曰へり、千秋子あり之を教へて実才を為さしめず乃《すなは》ち詞人たらしめんと欲する乎《か》、宜しく先づ史を読んで古今の事を知らしむべし、而して史は綱目より始むべしと。元礼薩に還るとき広島を過ぎ襄に語るに此事を以てす。嗚呼是れ天外より落ち来れる「インスピレーション」たりし也。当時栗山の名が如何計《いかばか》り文学社会に重かりしかを思へば彼の一言が電気の如く少年頼襄をして鼓舞自ら禁ずる能はざらしめたるや知るべきのみ。大なる動機は与へられたり、大なる憤発は生ぜり、彼が後年史学を以て自ら任ずる者|蓋《けだ》し端を此に発す。
史学なる哉《かな》、史学なるかな、史学は実に当時に於ける思想世界の薬石なり。禅学廃して宋学起り宋学盛んにして陽明学興る。一起一倒要するに性理学の範囲を出でず、抽象し又抽象し推拓し又推拓す、到底一圏を循環するに過ぎず、議論|愈《いよ/\》高くして愈人生に遠かる。斯の如きは当時の儒者が通じて有する所の弊害なり。史学に非んば何ぞ之を済《すく》ふに足らん。曰く唐、曰く宋、或は重厚典雅を崇び、或は清新流麗を崇ぶ、時世の推移と共に変遷ありと雖《いへども》、究竟清風明月を歌ひ神仙隠逸を詠じ放浪自恣なるに過ぎず、絶へて時代の感情を代表し、世道人心の為めに歌ふものあるなし。斯の如きは当時の詩人が通じて有する所の弊害なり、史学に非んば何ぞ之を済ふに足らん。今や二個の岐路は襄の前に横はれり、一は小学近思録の余り多く乾燥せる道なり、一は空詩虚文の余り多く湿潤せる道なり。憐れなる少年よ、爾《なんぢ》若し右に行かば爾の智慧は化石せん。爾若し左に行かば爾の智慧は流れ去らん。只一道の光輝あり、爾をして完全なる線上を歩ましむるに足らん、即ち史学也。
寛政八年襄
前へ
次へ
全9ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
山路 愛山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング