《はなは》だ相違せしことを察すれば更に一層の驚歎を加ふべし。蓋《けだ》し彼は其生涯の後年に於てこそ所謂閑雲野鶴、頗《すこぶ》る不覊自由の人とはなりたるなれ当時に在りては猶純乎たる封建武士の子たりし也。而して彼の人と為りも亦容易に父母の国を離れ得るものに非りし也。彼は温情の人なり、恩に感じ易き人なり、知遇に讐《むく》ゐん為には何物をも犠牲に供し得る人なり、彼|奚《なん》ぞ容易に父母の邦を棄得んや、容易に天下の浪士となり得んや、彼は智識に於てこそ極めて改革的進歩的の男子なりしなれ情に於ては極めて保守的の人物たりし。冑山昨送[#レ]我、冑山今迎[#レ]吾、黙数山陽十往返、山翠依然我白鬚、故郷有[#レ]親更衰老、明年当[#三]復下[#二]此道[#一]。彼は封建の世界、道路の極めて不便なるときにすら、故郷の母を省する為には山陽道を幾たびも往還することを辞せざりき。彼が菅茶山に与ふる書を読むに其邦君の仁恕なるを称し且曰く天下之士誰不[#レ]被[#二]其国恩[#一]若[#レ]襄則可[#レ]謂[#二]最重[#一]矣と。彼は如何にしても其邦君を忘るゝ能はざりき。斯の如きの彼なるに彼は青年の時に於て既に封建を非とし自ら封建以外の民たるを期せりとは吾人の決して想像し能はざる所なり。されば彼の外史を書くや亦実に此を以て大日本史が水藩に於るが如く芸藩の文籍となさんと欲せしに過ぎざるのみ。彼が備後に在るとき築山奉盈に与ふる書に曰く愚父壮年之頃より本朝編年之史輯申度志御坐候処官事繁多にて十枚計致かけ候儘にて相止申候私儀幸隙人に御坐候故父の志を継此業を成就仕、日本にて必用の大典と仕、芸州の書物と人に呼せ申度念願に御坐候と。其松平定信に与ふる書に曰く少小嗜[#レ]読[#二]国乗[#一]、毎病[#二]常藩史之浩穣[#一]、又恨[#二]其有[#一レ]闕云々。彼の光を大日本史と競はんとするに在りしや知るべきのみ。而して其の躰裁《ていさい》に至りても亦一家私乗の体を為し藩主浅野氏の事を書するときは直ちに其名を称せざるが如き愈《いよ/\》以て外史の本色を見るべき也。其後に至りて所謂|拮据《きつきよ》二十余年|改刪《かいさん》補正幾回か稿を改めしは固より疑ふべからずと雖も筆を落すの始より筆を擱《お》くの終りに至るまで著者の胸中には毫末《がうまつ》も封建社会革命の目的若くは其影すらもあらざりしなり。誰れか図らん此
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