、親戚なる某は襄を以て無頼の子なりと云ひ藩人は襄を以て国恩を蔑《ないがし》ろにするものなりと議せしかども襄の叔父は善く襄の志を知るものなりき。彼が篠田に与へたる同じ書簡の一節は襄の為めに好個の弁護者たるに足れり。曰く「然し狂妄なりとも宿志も有之事と相見候へば」と襄の挙動は如何にも狂妄に見へしなるべし。然れども叔父は其中に一片の志あるを看取せり。叔父既に之を看取す。後人何ぞ紛々をする。
頼襄の誘惑が如何程強きものでありしか、而して彼の為せし過は如何程大なるものでありしか、而して彼が此過失の為めに陥りし(或は好んで進み入りし)境遇は如何なるものでありしか、彼の伝を書くものは皆彼の為めに之を諱《い》めり。之を諱みしが為めに終に曖昧《あいまい》に陥れり。頼襄の生涯は猶一抹の横雲に其中腹を遮断《しやだん》せられたる山の如くなれり。只之が結果として知るべきは長子元協を生みし新婦御園氏の離別と京坂間をさまよひ歩きしことゝ数年間家に籠居せしことゝ仕籍を脱し叔父春風の子代りて元鼎春水の嗣となりしことのみ。而して彼自らは当時境遇を写すに窮愁の二字を以てせり。彼は実に此間に於て人生無数の憂患を味ひし也、人間の生涯が如何計り辛酸なるものであるかを味ひし也。之を聞く広島より厳島《いつくしま》に至る途上に一個の焼芋屋(?)あり、其看板は即ち彼の書きし所なりと。彼れの家に錮せらるゝや屡※[#二の字点、1−2−22]大字を書して之を売れり。思ふに其看板は即ち彼が当時の筆なり。千古の文士も一たびは焼芋屋の看板書きとなり下れり。
不名誉なる放蕩の結果は彼をして其父の志に違ひ頼家の嫡子たる権利を失はしめたり。然れども彼れ頼家の嫡子たる権利を失ひしが為めに著述を以て世に著るゝを得たり。
閉[#レ]門脩[#レ]史出[#レ]門遊、時追[#二]吟朋[#一]上[#二]画楼[#一]、落日蒼茫千古事、毛陶戦処是前洲。彼が日本外史の編述は当時に始れり。彼の自ら記す所に因りて之を按ずるに文化三年六月には外史を草して既に織田氏に及べり。彼時に年二十七、而して其年三十に及んでは既に全く稿を畢《をは》れり。知るべし日本の文学史に特筆大書して其大作たるを誇るべき日本外史は実に一個の青年男児に成りたるものなることを。是れ実に驚くべし。而《しか》も人|若《も》し何故に彼が外史の編述に志したるかを知り更に其著の目的と其結果との太
前へ
次へ
全17ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
山路 愛山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング