追はず、人物を論ぜず、明治文学の現象として起りたる何物をも怠らず観察して之を論評し、末に於て全般の観察をなさんと欲す。

     吾人が所謂文学なる者の釈義

 文章即ち事業なりとは吾人の深く信じて疑はざる所なり。事業の全躰を以て文章なりと曰《い》はゞ固より誤謬《ごびう》なるべし。然れども文章世と相|渉《わた》らずんば言ふに足らざるなり。
 北村|透谷《とうこく》君なる人あり。吾人が山陽論の冒頭に書きたる文章は事業なるが故に崇むべしと曰ひしをば難じたり。然れども彼は吾人を誤解せるのみ。彼は吾人を以て夫《か》の宗教家若しくは詩人、哲学者が世界的《ウヲルドリイ》と呼べるところの事業に渉らずんば無益の文章なりと曰ひたるが如く言へり。如何《いか》なれば彼の眼|斯《かく》の如く斜視する乎。彼は自らを高くし、高、壮、美、崇、恋などいふ問題は恰《あたか》も自己独占の所有品にして吾人の如き俗物が(彼の見て以て俗物とする)関せざる所なるが如く言へり。彼は吾人を誣《し》ひて吾人の思はざることを思ひたるが如く言へり。
 吾人が文章は事業なりと曰ひしは文章は即ち思想の活動なるが故なり、思想一たび活動すれば世
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