云へるが如き冒頭を以て誰れにも読まるゝ如く書かれたる者多かりき。此点に於ては当時の識者は今日の文人に勝《まさ》れりと曰ふべし。文は達意を旨とする者也。最も簡易にして誰れにも通ずるを善しとすとは当時に於て何人も首肯する所なりき。
 而して福沢氏の文章は当時より今日に至るまで毫も其躰裁を改めず、何人にも解し易きのみならず、読み去りて一種の味あり。極めて俗なれども厭《あ》くことなく、人をして覚えず巻を終へしむ。夫《か》の蓮如の「御文章」は彼れが理想の文学なりと聞きつれども彼れの文は単に文のみとして論ずるも蓮如に勝ること数等也と云ふべし。
(二)自得する所あり  彼れが文章に斯《かく》の如く一種の味ある所以《ゆゑん》は何ぞや。彼れは其語る所に於て自得する所あれば也。彼れは固より深遠なる哲学を有せざるべし。天地の表彰《シンボル》を通じて神霊を見るが如き超越的《トランセンデンタル》の直覚を有せざるべしと雖《いへど》も、彼れはたしかに人生てふ経験を有せり。彼れは社会、政治、経済、人情を貫通する数条の道理を理会せり。故に之を語るや、即ち自家嚢中の物を出すなり。彼れは飜訳的に語らざる也、代言的に語らざる
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