雖も怪しむ勿《なか》れ、彼は多く学問し多く詮索するの機会を有せざりしなり。
人若し少なき学問を以て多く考ふることを得ば其少なき学問は寧《むし》ろ彼の誇るべき者なり。
天下自ら運命を作れる人は皆不完全なる武器を以て大なる事を遂《と》げたる者なり。
乞ふ吾人をして彼の著書を細評する前に、先づ其大躰に就て一二言ふ所あらしめよ。
(一)玲瓏《れいろう》なる理解力 吾人は彼に於て始めて堅硬なる思想を見るを得たり。彼は其言ふ所を明かに知れるなり、彼の脳髄は整へり。世の文学者なる者、自らは空言に非ずと信じて書くことにても、思想錯雑して前後衝突し論理的に之を煎《せん》じ詰《つめ》れば結局空論に化して自らも之を驚く者あり。
其論文の構造は如何にも華麗にして恰《あたか》も蜃気楼《しんきろう》の如くなれども堅硬なる思想の上に立たざるが故に、一旦|破綻《はたん》を生ずれば破落々々となり了《をは》る者あり。甚しきに至つては、徒《いたづ》らに知らぬ事を喋々《てふ/\》し一知半解識者をして嘔吐《おうと》を催さしむる者あり。然れども田口君の論文に至ては毫末も斯の如きの病なし。彼は事理を見るに明かなり。故に横に之を説くも竪《たて》に之を論ずるも、如何なる攻撃に遇ふも、如何なる賞讃に遇ふも彼は動かざるを得るなり。白旗不[#レ]動兵営静なりとは彼が論文を形容すべき好辞なり。
田口卯吉君と其著述(二)
(二)数学的の脳髄 数学は諸学科の基本なれども久しく我学者間に軽蔑せられたりき。関新助、渋川春海、中根玄圭の如き諸大家――我国のニュートンとも曰《い》ふべき大科学家――も新井白石、頼山陽等の人口に籍々《せき/\》たるに反対して、殆んど知られずに過ぎたりき。然れども地底の岩を音なしに流るゝ水こそ地面を膏腴《かうゆ》[#「腴」は底本では※[#「月+叟」、第4水準2−85−45]]にする者なり、彼れ数学者が人知らず辛棒《しんぼう》せし結果は我人民の推理力を養うて第十九世紀科学|跋扈《ばつこ》の潮流に合することを能《よ》くせしめたりき。果然経済学の唱道者は数学者の子孫より出でたり、田口君の推理力は其母方の血統なりとか聞く佐藤一斎に出でしにはあらずして其父方の血統に出でしなり。田口某君と称する彼の先考は実に数学者なりしなり。彼れは幕府天文方の吏として世に知られざる生涯を送りしかども、彼れが養
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