透谷全集を読む
山路愛山

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)慙愧《ざんき》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)猶|故《ことさ》らに

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から2字上げ](明治三十五年十月十一、十三日)

 [#…]:返り点
 (例)加[#レ]之

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)浮々《うか/\》
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       (一)

 僕は透谷全集を読んで殆んど隔世の感あり。透谷の精力の或部分は実に僕を攻撃する為めに費されたるものなりしことは僕の今にして慙愧《ざんき》に堪《た》へざる所なり。勿論私交の上に於ては僕は透谷の友人と称すべき一人たりしことを要請する権利ありと信ず。然れども透谷は友人たるが為めに異論者を用捨するが如き漢子《をとこ》にはあらざりき。否、友人たるが為めに故《ことさ》らに弁難攻撃を試みたるものならん。加之《しかのみならず》透谷の感性は非常に強かりしかば僕等が書き放し、言ひ放しにしたるものも、透谷に取つてはそれが大問題を提起したるが如く思はれしを以て直《たゞち》に其心裏に反撃の波浪を捲《ま》き起したるならん。僕は当時世に樽柿を食《くら》ひても猶《なほ》酔ふものなきに非ず、透谷の感性は甚《はなは》だ之に似たり。余り「デリケート」にして、浮々《うか/\》之に触るれば直ちに大振動を起すべき恐ろしき性質のものなりと思ひしこともありき。透谷が僕と論戦を開きし第一の動機は僕が『山陽論』を書きて文章は事業なり、英雄が剣を揮《ふる》ふも、文士が筆を揮ふも共に空《くう》を撃つが為めにあらず、為す所あらんが為めなりと云ひしより起れり。是れ実に僕が東都の文壇に於て他人に是非せらるゝに至りたる始めなりき。而して此文の出づるや透谷は直ちに之れを弁駁して事業と云ひ、功績と云ふが如き具躰的の功を挙ぐるは文人の業に非ず、文人の業は無形の事、即ち人の内心《インナーハート》に関す、愛山の所謂《いはゆる》空を撃つが為めなりと言へり。二人の間に議論に花が咲きたるは実に此に始まれり。去りながら僕は当時少しも透谷の説に感服せざりき。何となれば僕の事業と云ひしは決して具躰的に表はるべき事功のみを指したるに非ず。僕は心霊が心霊に及ぼす影響は何にても之を事業と云ふべきものなりと始めより信じたるが故に文章を以て事業としたるのみ。されば透谷の駁論は敵なきに矢を放つもの乎、否なれば僕の説を読み違へたるものに過ぎず。僕は斯《か》く信じたるを以て更に此趣意に依りて応戦したるのみならず、荻生徂徠論を著すに至つても猶|故《ことさ》らに『文章は事業なり。文士筆を揮ふ猶英雄剣を揮ふが如し』の一句を挿入して其説を改むるの要なきことを暗示せり。而《しか》る後、透谷は又『純文学』及び『非純文学』なる名目を立て、史論の如きは『純文学』に非ず、小説詩歌の如きものゝみが純文学なりと云へる趣意の論文を書きたり。然るに此説には僕に異論ありしが故に、此度は此方《こなた》より攻撃的態度を取つて戦端を開きたり。当時の僕の論旨は歴史にても小説にても共に人事の或る真実《ツルース》を見たる上にて書くべきものなり。歴史は勿論帰納的に事実を研究せざるべからずと雖《いへど》も小説も亦《また》決して事実を離れたる空想なりとは言ひ難きのみならず、時としては小説の却《かへ》つて歴史よりも事実に近きことなきに非ず。此故に小説は決して事実の研究、科学的の穿索《せんさく》なくして書き得べきものに非ず。然るに之に命ずるに純文学てふ空名を以てし、不研究なる想像の城中に立籠らんとするは卑怯《ひけふ》なりと云ふに在りき。其頃より透谷の友人と僕の友人との間には自然に思想の鴻溝《こうこう》を生じ、僕の友人は透谷等と思想の傾向を同くするものを目するに高蹈派を以てし、透谷と思想の傾向を同ふするもの僕等を形而下《けいじか》派と罵《のゝし》るに至れり。
 透谷等の所謂『形而下派』にては無論蘇峰先生が総大将にして僕等は蘇峰門下の末輩に過ぎざりき。たとへば高蹈派と云ふ名目を作りたるも蘇峰君なりしが如し。然れども透谷はしか信ぜざりき。透谷の見る所に依れば蘇峰は幽玄を解し、美を解し、形而上を解する力あり。そは『静思余録』を見るも分明なり。たゞ頑冥《ぐわんめい》不霊なるは愛山のみ。彼れは形而上を解すること能《あた》はざる『唯物論者』なり。彼れの頭脳は英人的にして事業と功利の外は総《すべ》てを軽侮せんとするものなりと。是れ彼れの独断的批評なりき。而して彼れは自ら之を僕に語りたるのみならず、僕の透谷の家にて其遺墨を見たる時も同じ論旨を書きたるものを存したりき。此故に透谷は一意に僕に向て鉄椎《てつつゐ》を下さんと試みぬ。

    
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