(二)

 斯《かく》の如き論戦も今は昔の夢となりぬ。然れども余は終生透谷に感謝せざるを得ざるものあり。余は未だ嘗《かつ》て透谷の如く親切に余の議論を批判したるものあるを見ず。透谷の如く短兵直ちに余の陣営に迫りしものを見ず。彼れは真に余の益友なりき。余は今も猶彼れの所謂唯物論者たることを免れざるやも知れず。余自ら之を知らず。而も余が人間は物質以上、形骸以上、功名以上に或る要求を有せざるべからざることを信じ、而して常に現実に満足せざるべしてふ願慾を有しつゝあることを得たるは是れ実に久しく地下に眠つて再び与《とも》に現世を歩むこと能はざる此一友人の恩恵に帰すべきこと多きは余の好んで告白せんと欲する所なり。
 透谷と余の論戦は頗《すこぶ》る激烈なりき。然れども余は個人たる透谷に対しては常に毫《がう》も愛敬の念を失はざりき。透谷も亦|勿論《もちろん》、論敵たる人の性格までを疑はんとする卑劣なる人物にあらざりき。現に余と透谷とが日々論戦を為しつゝありし頃は透谷も余も共に麻布の霞町に住し日夕相往来したりしなり。草緑にして露繁き青山の練兵場、林を出でゝ野に入り、野を去つて更に田に出づる笄《かうがい》町より下渋谷の田舎道は余と透谷とが其頃|数《しばし》ば散歩したる処にして当時の幻影《おもかげ》は猶余の脳中に往来す。蓋《けだ》し透谷の感情は頗る激烈にして、彼れは之れが為に終《つひ》に不幸なる運命に陥りし程の漢子《をとこ》なりしと雖も、平時は寧《むし》ろ温和なる方なりき。而して其人と事を論ずるに方《あた》つても彼れには決して気を以て人を圧するが如きこと無く、静かにして而も少《ちひ》さき声にて微笑しながら語るなりき。余は之に反せり。
 直情径行は今も昔も医《いや》し難き余の病なりしかば、数ば大声を発し、論戦若し危きに及べば所謂横紙破りの我慢をも言出だしき。然れども透谷は敢て同一の調子にてそれに抵抗したることなかりき。彼れは唯ニヤリ/\と無邪気に笑ひつゝありしのみなりき。余は今猶記す。或る日例の如く二人にて散歩しつゝ討論しつゝありし時、余が余りに熱心になりて覚へず杖を振廻し/\したりしかば、透谷はそれを危ぶながりてクス/\笑ひながら路傍《ろばう》へ避け去りしことありき。此一事を以てするも透谷の温和なる性質は読者の心に明かならん。|加[#レ]之《しかのみならず》透谷は余が彼れに遊歩や外出を促したる時に於て未だ嘗て一度も否と言ひしことは無かりき。彼れはたとひ其日印刷に付せざるべからざる原稿を書きつゝありし時も猶直ちにそれを抛《なげう》つて書斎を出づるを常としたりき。思ふに彼は大抵の事ならば『否』の一語を以て他人の感情を害するに忍びざりしなるべし。透谷の如きは胸中一点の邪気なき醇粋なる可憐児なりきと曰つて可なり。
 余は透谷が友人に対して深厚なる同情を傾くるを常としたる人物なりしことの一証として左の事を語らんと欲す。余と透谷に一個の友人ありき。余は彼れの紹介にて始めて透谷と交はりしなり。或時彼れは其職業を失ひたるが為に大に窮せり。然れども武士の子にして而も気性の勝ちたる彼れは誰にも其窮を訴へず、独り自ら苦しみしのみなりき。時に透谷は一夕彼れを訪ひ長話をなして帰れり。其夜透谷は勿論彼れの生計につきて一言も発せざりき。透谷は辞し去れり。彼れは透谷の坐りたる傍《かたは》らに若干《じやくかん》の紙幣が紙に包まれて在りしことを発見せり。而して其紙片には失敬ながら些《いさ》さか友人の窮を救はんとすと云ふ趣意を書きありき。彼れは之を見て感泣したりと云ふ。如何《いか》なる親友にても当面に君は窮せり僕は金を君に貸さんと云ふが如き露骨なる恩恵を売るは透谷の為すに忍びざる所なりき。然れども彼れは又自己は如何ほど窮するとも友人の苦痛は決して坐視すること能はざる深くして切なる同情を有したりしなり。余は親しく之を其友人に聴きて愈《いよい》よ透谷を尊敬するの念を長じたりき。
 透谷の脳膸は有躰《ありてい》に言へば科学的明白を欠きたりき。恐らくは科学と論理学は透谷の好む所にあらざりしなるべし。余は透谷の文を読んで数ば其要領を得ること能はざるに苦みしことを告白せざるを得ず。然れども是れ透谷の累と為すに足らず。透谷は論理学以上の或物を有せり。透谷は生れながらの詩人なりき。彼れは論理学の繩墨や、修辞法の小学に服従することの能はざる詩人的天才を有せり。此天才こそ透谷集に一種の興味を与へて長く読書社会の賞讃を博すべき所以《ゆゑん》ならん。蘇峰君は此点を看取したるが故に透谷は明治の詩人たるべかりきと言へり。余も亦感を同ふす。
 たま/\透谷集に対して今昔の感に堪へず思ふ所を記す。聡明にして感情を有したる地下の故人、応《ま》さに余の依然として呉下蒙《ごかもう》たるを笑ふなるべし。地下の故人よ、嗚
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