デアリスト》、派を分ち党を立つると雖も、畢竟《ひつきやう》するに専断の区分に過ぎざるのみ。所謂理想派と雖も、豈《あに》徒らに鏡花水月をのみ画く者ならんや、心中の事実、皎《けう》として明なる者を写すに過ぎざるのみ、然らば即ち是も亦写実派なり。所謂写実派と雖も豈徒らに事の長さと物の広さとを詳記して止む者ならんや、事の情と物の態とを抽《ぬ》きて之を写さゞるを得ず、然らば即ち是も亦理想派なり。実中の虚、虚中の実、豈に截然《せつぜん》として之を分つべけんや。之を分つは談理の弊なり。
 最も解し難きは自ら己れを目して写実派なり、理想派なりと曰ふの徒也。夫れ天下の詩人は多し、其性情行径亦各同じからず。傍人之を評して彼れは写実派なり、是れは理想派なりと曰ふ、亦唯其性の近き所に因つて之れを品題するに過ぎざるのみ。其実は即ち一人にして時としては深遠なる理想を歌ひ、時としては目前の景を歌ふ者なり、必しも自ら其理想派たり、写実派たるを知るを要せざる也。しからずして若し我れ理想派たり、我れ写真派[#「写真派」はママ]たりと曰はゞ即ち自ら其活溌たる詩眼を蔽ふに一種の色眼鏡を以てする者にあらずして何ぞや。
 詩人若
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