時世の必要は横なり、人心の必要は縦なり。時世は普通にして広き必要を有し、人心は個々にして深き必要を有す。人は社会の会員として時世の必要に眼を開き、一個人として中心の必要に耳を与ふ。
預言者は幾たびも出で、聖人は幾たびも出づ、人間は幾たびも己れの秘密を歌ひ、己れに教訓を与ふべき者の出でんことを望む。
人は詩人より新しき物を得んとせず、而も詩人に因りて眠れる心を覚まし、痿《な》へたる腕を揮《ふる》はんことを欲す。
漫《みだり》に「文学は文学なり、宗教は宗教なり」と曰《い》ふこと勿《なか》れ、宗教文学豈に劃して二となすべきものならんや、文学の中に宗教あり、宗教の中に文学あり。詩人若し其歌ふ所に於て、毫も世道人心と相関するなくんば是れ即ち無残なる自慾なる耳《のみ》。苟《いやしく》も詩を作りて之を読む者に何の感化を与へずんば是れ蟋蟀《こほろぎ》にだも如《し》かざるなり。既に感化する所あれば則ち是れ宗教なり。
詩人は理想を教へざるべからず、彼れは明かに理想を見て、明かに之を画かざるべからず。彼れの理想は光明なる者ならざるべからず。彼れの理想は実在よりも高き者ならざるべからず。曖昧《あい
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