時世の必要は横なり、人心の必要は縦なり。時世は普通にして広き必要を有し、人心は個々にして深き必要を有す。人は社会の会員として時世の必要に眼を開き、一個人として中心の必要に耳を与ふ。
預言者は幾たびも出で、聖人は幾たびも出づ、人間は幾たびも己れの秘密を歌ひ、己れに教訓を与ふべき者の出でんことを望む。
人は詩人より新しき物を得んとせず、而も詩人に因りて眠れる心を覚まし、痿《な》へたる腕を揮《ふる》はんことを欲す。
漫《みだり》に「文学は文学なり、宗教は宗教なり」と曰《い》ふこと勿《なか》れ、宗教文学豈に劃して二となすべきものならんや、文学の中に宗教あり、宗教の中に文学あり。詩人若し其歌ふ所に於て、毫も世道人心と相関するなくんば是れ即ち無残なる自慾なる耳《のみ》。苟《いやしく》も詩を作りて之を読む者に何の感化を与へずんば是れ蟋蟀《こほろぎ》にだも如《し》かざるなり。既に感化する所あれば則ち是れ宗教なり。
詩人は理想を教へざるべからず、彼れは明かに理想を見て、明かに之を画かざるべからず。彼れの理想は光明なる者ならざるべからず。彼れの理想は実在よりも高き者ならざるべからず。曖昧《あいまい》なるは理想の賊なり、難解の語は詩人の賊なり。今の純文学を以て自ら任ずる者、漫に高壮、美大を称して、而して其言雲煙の漠たるが如し。彼れ明かに何物をも見ずして、強ゐて辞句の間に人を瞞せんとする乎。
形と色と辞令とは人に満足を与ふる者に非ず、人は理想と教訓とを求む。
詩人の材ありて、而も伝はらざる者は、時世を解せず、人心を解せざるに因る。天禀《てんぴん》余ありて脩養足らざれば也。
非談理
談理は詩人の敵なり。詩人一たび道理を説けば終に理窟に陥らざるを得ず。
若し蕉翁の什を以て禅味ありと曰はゞ可也。直ちに蕉翁は禅学を有し、其詠|悉《こと/″\》く之を繩墨として出づと曰はゞ是れ蕉翁を以て一種の哲学者とする者也。
予が殊に今日の詩人に於て甘服《かんぷく》する能はざる所ろは、一定の規矩《きく》を立てゝ人と己とを律せんとするに在り。審美の学を作りて、是を以て詩界の律令と為さんとするに在り。知らずや宇宙は卿曹の哲学に支配せらるゝが如き狭隘《けふあい》なる者に非ず、天地の情、乾坤《けんこん》の美は区々たる理論の包轄し得べき者に非るを。
曰く写実《リアリスト》、曰く理想《アイ
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