デアリスト》、派を分ち党を立つると雖も、畢竟《ひつきやう》するに専断の区分に過ぎざるのみ。所謂理想派と雖も、豈《あに》徒らに鏡花水月をのみ画く者ならんや、心中の事実、皎《けう》として明なる者を写すに過ぎざるのみ、然らば即ち是も亦写実派なり。所謂写実派と雖も豈徒らに事の長さと物の広さとを詳記して止む者ならんや、事の情と物の態とを抽《ぬ》きて之を写さゞるを得ず、然らば即ち是も亦理想派なり。実中の虚、虚中の実、豈に截然《せつぜん》として之を分つべけんや。之を分つは談理の弊なり。
最も解し難きは自ら己れを目して写実派なり、理想派なりと曰ふの徒也。夫れ天下の詩人は多し、其性情行径亦各同じからず。傍人之を評して彼れは写実派なり、是れは理想派なりと曰ふ、亦唯其性の近き所に因つて之れを品題するに過ぎざるのみ。其実は即ち一人にして時としては深遠なる理想を歌ひ、時としては目前の景を歌ふ者なり、必しも自ら其理想派たり、写実派たるを知るを要せざる也。しからずして若し我れ理想派たり、我れ写真派[#「写真派」はママ]たりと曰はゞ即ち自ら其活溌たる詩眼を蔽ふに一種の色眼鏡を以てする者にあらずして何ぞや。
詩人若し談理の弊に陥れば、其詩は即ち索然として活気を失はざるを得ず、何となれば是れ既に情《ハート》の声に非ずして知《マインド》の声なれば也。詩人若し自己の哲学に牢せらるれば、其詩は即ち単調とならざるを得ず、何となれば千篇も終に一律の外に逸する能はざれば也。
吾れは是故に審美論を喋々《てふ/\》して、後進を率ゐんとする者を目して詩道の李斯、王安石となす。
詩人よ、爾《なん》ぢ感ずるがまゝに歌ひ、見るがまゝに説き、思ふがまゝに語れ。爾が心の奥を開きて隠すこと勿《なか》れ。爾が成功の秘密は斯の如きのみ。
爾は自己に協《かな》へる衣を択び自己の詩想を発揮すべき詩形を択べ、爾自己のを歌へ、古人の蘇言機たること勿れ。
予は詩道のベーコンが世に出でんことを望む。今日の乏しき所は高き理想に非ず、美しき辞令に非ず、豊富なる詩題《サブゼクト》なり。主観的の想考に富んで客観的の題目に貧しきは今の詩人の弊なり。予は詩人がしばらく空しき想像を離れて、先づ天地と人生とを見んことを希望す。彼等世に遠かるが故に世と疎《うと》き也。
感情は見るに因つて生ず、見ずして摸索す、是に於てか勢ひ虚偽に流れざるを得ず。予《わ
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