く》(勝家の別名、つまり修理亮の別名である)それほど老ぼれたとは知らなかった。軍の事は、盛政に委せて明日は都へ進まれる支度をした方がいい」と豪語して、勝家の再三の使者の言葉を受けつけないのである。勝家嘆息して、「さても不了簡なる盛政かな、これは勝家に腹切らせんとの結構なるべし、何とて、敵を筑前と思いけん、今日の敵は盛政なり」と云った。

       賤ヶ岳七本槍之事

 桑山修理亮の飛脚が、大垣の秀吉の許に着いたのは、四月二十日の正午頃であった。秀吉使いに向い、盛政は直ぐに引き取りたるかと訊いた。いや、そのまま占領した場所に陣していると聴くと、踏々と芝ふみ鳴らし、腰刀《ようとう》を抜いて額《ひたい》に当てて「軍には勝ちたるぞ、思いの外早かった」と五六度呼ばわったと云う。思う壺に入ったわけである。氏家内膳正、堀尾茂助を岐阜の押えとして残し、自らは一柳直末、加藤光泰二騎を従えるや、二時頃には馳せ出でた。四時から五時の間にかけて一万五千の兵も大垣を発したのである。秀吉は馬を馳《か》けづめに馳けらせるので、途中で度々、乗り倒したが、前もって宿々に馬を置いてあるから、忽ち乗り換え乗り換え諸鐙《もろあぶみ》を合せて馳せた。更に途中に在る者共に命ずるには、一手は道筋の里々にて松明《たいまつ》を出さしめ、後続する軍の便宜を与うべし、更に一手は長浜の町家に至り米一升、大豆一升宛を出さしめ、米は粥《かゆ》に煮て兵糧となし、大豆は秣《まぐさ》として直ちに木の本の本陣に持ち来《きた》るべしとした。用意の周到にして迅速なるは驚くべきものがある。夜九時頃には既に木の本に着いて居たのである。
 さて一方、盛政は大野路山に旗本を置いて、清水谷庭戸浜に陣を張って賤ヶ岳を囲んで居ったが、桑山修理亮の言を信じて、夕陽《せきよう》没するに及んで、開城を迫った。然るに修理亮等は最早《もはや》救援の軍も近いであろうと云うので、忽ち鉄砲をもって挑戦した。盛政怒って攻め立て矢叫《やたけ》びの声は余呉の湖に反響した。丁度此時、丹羽長秀、高島郡大溝の城を出でて、小船で賤ヶ岳の戦況を見に来合せたが、賤ヶ岳の辺で矢叫び鉄砲の音が烈しいのを聞いて、さては敵兵|早急《さっきゅう》に攻むると見えた、急き船を汀《なぎさ》に付けよと命じた。供の者はこんな小勢で戦うべくもないと云った処、長秀、戦うべき場所を去るは武将ではないと叱った。更に一人に、漕ぎ返って、海津表七千騎の内三分の一を此方《こちら》へ廻せと命じた。この火急の場合、五里の湖上を漕ぎ返っての注進で、間に合いましょうやと尋ねると、いや別段急ぐわけでもない。只今長秀、賤ヶ岳へ援軍すると云えば、敵軍は定めし大兵を率いて来たものと察して猶予の心が出るであろう。其間に馳せ着けばよいのだ、と云棄てて直《ただち》に賤ヶ岳に上った。賤ヶ岳では折柄悪戦の最中であるから、長秀来援すと聞いては、くじけた勇気も振い起らざるを得ない。盛政の方では長秀|来《きた》ると聞いて、気力をそがれて、賤ヶ岳を持て余し気味である。此時刻には、秀吉の大軍も木の本辺に充ち満ちて居たのである。先発隊は田上《たがみ》山を上りつつあったのであるが、そのうち誰云うとなく、盛政の陣中で、秀吉来れりと云って俄《にわ》かに動揺し出した。拝郷五左衛門尉、盛政にこの由を報ずると、「慌《あわ》てたる言葉を出す人かな、秀吉飛鳥にもせよ十数里を今頃馳せ着け得るものにや」と相手にしない。処が弟勝政、不破彦三の陣所からの使は、美濃街道筋は松明|夥《おびただ》しく続いて見え、木の本辺は秀吉勢で充満すと見えたりと報じたので、流石強情我儘の盛政も仰天しないわけにはゆかなかった。此状勢を保って居られる筈はないから、早々陣を引払って、次第に退軍しようと試みた。先に長秀の応援でいい加減気を腐らして居た盛政の軍は、今また秀吉の追撃があるとなると、もう浮足立つ計りである。十一時過ぎ、おそい月が湖面に青白い光をそそぐ頃、盛政の軍は総退却を開始した。二十一日の午前二時には秀吉の軍田上山を降り、黒田村を経て観音坂を上り、先鋒二千の追撃は次第に急である。拝郷五左衛門尉取って返し、身命を惜まず防ぎ戦うが、味方は崩れ立ち始めて居る。盛政は荒々しい声で、拝郷等は何故に敵を防がぬかと叱ったので、五左衛門尉|嘲笑《あざわら》って、御覧候え、我々が身辺、半町ほどは敵一人も近付け申さず。ただ敵勢鋭きが為に味方振わないのである。此上は面々討死をして見せ申そうと計りに、青木勘七、原勘兵衛等と共々に、追い手の中に馳せ入った。青木勘七は血気の若武者で、真先に進んで忽ち五人まで突落したとある。この青木は後に越前に在って青木紀伊守|一矩《かずのり》に仕えたが、ある時同じ家中の荻野河内の館《やかた》で、寄合いがあった際、人々に勧められて、余呉湖畔戦の想い出話をした事がある。「金の脇立物、朱漆《しゅうるし》の具足の士と槍を合せたが、その武者振見事であった」と語った処が、その武者が主人の河内であることが判り、互に奇遇を嘆じたと云う話がある。中学の教科書などに出ている話である。それはとにかく、盛政の軍は、拝郷、青木等の働きで何とか退軍を続けて居た。暁暗の四時過ぎ、秀吉は猿ヶ馬場に床几を置かせ、腰打かけて指揮を執って居た。さて、安井左近大夫、原彦次郎等もようよう引退いて、盛政と一手になったので、盛政少し力を得て、清水谷の峠へ退いて備を立直そうとしたが、秀吉の軍は矢鉄砲を打って追かけるので、備を直す暇もなく崩れた。彦次郎左近大夫二人は、一町毎に鉄砲の者十人、射手五六人|宛《ずつ》伏せて、二人代る代るに殿《しんがり》して退こうとするが、秀吉先手の兵が忽ちに慕い寄るので、鉄砲を放つ暇《いとま》もない。止むなく、飯之浦《いいのうら》に踏み止まろうとした。加藤虎之助、桜井左吉進み出て、盛政の陣立《じんだて》直らぬうちに破らん事を秀吉に乞うた。秀吉笑って許さず、馬印を盛政勢の背後の山に立置く様に命じて置いて、菓子を喰い茶を飲んで悠々たるものである。柴田勝政は三千余騎で、賤ヶ岳の峰つづき堀切辺りで殿戦して居たが、兄盛政から再三の退軍を命ぜられたので、引取る処を秀吉軍の弓銃に会い、乱軍となって八方に散った。落ちて行くうちに不意に秀吉の千成瓢箪が行手に朝日を受けて輝き立って居るので、周章狼狽した。秀吉この有様を見て居たが、すは時分は今ぞ、者共かかれと下知し、自ら貝を吹立てた。夜も全く明けた七時頃、秀吉は総攻撃を命じたのである。旗本の勢も一度に槍を取って突かかったが、真先に石川兵助、拝郷五左衛門と渡合ったけれども、五左衛門が勝った。兵助の首を取ろうとする処へ、盛政の使来って相談すべき事があるから直《すぐ》に来れと命を伝えた。五左衛門聞入れず、引くべき場所を引取らぬ不覚人の盛政、今更何の相談ぞ、既に北国の運命尽きる日ぞと云って返し戦う。糟屋《かすや》助右衛門、好敵と見て五左衛門と引組んだ。助右衛門、ついに上になり首を掻こうとするのを、五左衛門すかさず下から小刀で二刀まで突上げたが、鎧堅くて通らず討たれて仕舞った。佐久間勝政も庭戸浜で戦って居たのを、加藤虎之助同孫六真一文字に突かかり難なく追崩した。浅井吉兵衛、山路将監も今は防ぐ力もなく下余吾方に落行く処を、渡辺勘兵衛、浅井喜八郎大音挙げて、見知ったるぞ両人、返し戦えと挑戦したが、二人共山の崖を踏外して谷底へ転げ落ちた。麓を通る大塩金右衛門の士|八月一日《ほずみ》五左衛門に討ち取られたと云うが、一説には加藤虎之助と引組み、崖から二三十間も上になり、下になりして転げ落ちた末、ついに将監首を獲《と》られたとも伝える。直木三十五氏が、加藤清正は山路将監を討った以外、あまり武功がないとけなしていたが、山路将監を討ったと云ふ事も伝説に近いのである。宿屋七左衛門尉は鳥打坂の南で、桜井左吉と戦って、左吉に痛手を負わせた処を、糟屋助右衛門来った為に、両人の為に討止められた。佐久間勝政も、飯之浦で福島市松、片桐助作、平野権平、脇坂甚内等の勇士が槍先を並べてかかるのを、兵四人までを切落して戦ったが、遂に斬死した。盛政も、奮戦したが、総軍今は乱軍のまま思い思いに退却である。盛政例によって大音声を挙げ、味方の諸士臆病神が付いたのか、と罵ると、原彦次郎曰く「仰せの如く味方の兵が逃げるのは、大将に臆病神取付いて引返して備うる手段を採らない故である。退軍に勝利のあるわけがない」と云い放った。盛政一言もなしである。前田利家父子は二千騎をもって備えて居たが、敗軍と見るや、華々しい働きもなく早速に府中に引取った。利家の出陣は、別段、勝家の家臣であるからでもなく、ただ境を接するの故をもってであり、且つ秀吉とは寧ろ仲が善かった位であるから、体のいい中立を持したわけである。此合戦に先んじて、秀吉利家の間にある種の協定さえあったと思われるのである。丹羽長秀、これを見て時分はよしと諸砦《しょさい》に突出を命じた。北国勢全く潰《つい》えて、北へ西へと落ちて行った。小原新七等七八騎で、盛政等を落延びさせんと、小高き処で、追い来る秀吉勢を突落して防いで居るのを、伊木半七真先に進んで、ついに小原等を退けた。
 此時の合戦に、両加藤、糟屋、福島、片桐、平野、脇坂七人の働きは抜群であったので、秀吉賞して各々に感状を授け、数百石|宛《ずつ》の知行であったのを、同列に三千石に昇らしめた。これが有名な賤ヶ岳七本槍である。石川兵助、伊木半七、桜井左吉三人の働きも、七本槍に劣らなかったので、三振の太刀と称して、重賞あったと伝わって居る。
 さて北軍の総大将勝家は、今市《いまいち》の北狐塚に陣して居たのであるが、盛政の敗軍伝わるや、陣中動揺して、何時の間にか密かに落ちゆく軍勢多く、僅か二千足らずになった。勝家嘆じて、盛政、血気に逸《はや》って我指揮に随《したが》わず、この結果となったのは口惜しいが、今は後悔しても甲斐なきこと、華かな一戦を遂げたる後、切腹しよう、と覚悟した。毛受《めんじゅ》庄助進み出て「今の世に名将と称せられる君が、この山間に討死あるは末代までの恥である。よろしく北の庄に入って、心静かに腹を召し給え」と勧め、自らは勝家の馬印をもって止り防がんことを乞うた。勝家、庄助の忠諫を容れ、金の御幣の馬印を授けて、馬を北の庄へと向けた。庄助、兄茂左衛門と共に三百騎、大谷村の塚谷まで引退いて寄せ来る敵と奮戦して、筒井の家来、島左近に討たれた。
 勝家、其間に北の庄指して落ちたのであるが、前田利家の府中城下にさしかかった時は、従う者僅かに八騎、歩卒三四十人に過ぎない。利家招じ入れると勝家、年来の誼《よしみ》を感謝して落涙に及んだ。勝家、利家に「貴殿は秀吉と予《かね》て懇《ねんごろ》であるから、今後は秀吉に従い、幼君守立ての為に力を致される様に」と云った。利家は、朝来、食もとらない勝家の為、湯漬を出し、酒を勧めて慰めた。夕暮になって、乗換の新馬を乞い、城下を立ち去ったが、嘗つての瓶破《かめわり》柴田、鬼柴田の後姿は、悄然《しょうぜん》たるものがあったであろう。
 四月二十三日、越前北の庄の城は、既に秀吉の勢にひしひしと囲まれて居た。勝家は城|諸共《もろとも》消え果てる覚悟をして居るので、城内を広間より書院に至るまで飾り、最期の酒宴を開いて居た。勝家の妻はお市の方と云って、信長の妹である。始め、小谷《おだに》の城主浅井長政に嫁し、二男三女を挙げたが、後、織田対朝倉浅井の争いとなり、姉川に一敗した長政が、小谷城の露と消えた時、諭《さと》されて、兄信長の手に引取られた事がある。清洲会議頃まで岐阜に在って、三女と共に寂しく暮して居たが、信孝勝家と結ばんが為、美人の誉高い伯母お市の方を、勝家に再嫁せしめたのである。勝家の許に来って一年経たず、再び落城の憂目を見る事になった。勝家、その三女と共に秀吉の許に行く様に勧めるが、今更生長える望がどうしてあろう、一緒に相果てん事こそ本望であると涙を流して聞き容れない。宵からの酒宴が深更に及んだが、折柄、時鳥《ほととぎす》の鳴くのをお市の方聞いて、
[#天から
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