会議の結果、三法師丸を織田家の相続とし、信雄、信孝が後見と定《きま》って居たのであるが、秀吉は、安土城の修復を俟《ま》って、三法師丸を迎え入れようとした。然るに岐阜の信孝は、三法師丸を秀吉の手に委ねようとしない。秀吉をして三法師丸を擁せしめるのは、結局は信孝自身の存在を稀薄なものとさせるからである。秀吉ついに、丹羽長秀、筒井順慶、長岡(後の細川)忠興《ただおき》等三万の兵を率いて、濃州へ打って出でた。先ず、大垣の城主|氏家《うじいえ》内膳正を囲んだが、一戦を交えずして降《くだ》ったので、秀吉の大軍大垣の城に入った。伝え聞いた附近の小城は風を望んで降ったので、岐阜城は忽ちにして取巻かれて仕舞った。信孝の方でも、逸早《いちはや》く救援を勝家に乞うたけれども、生憎《あいにく》の雪である。勝家、猿面冠者に出し抜かれたと地駄太踏むが及ばない。そこへ今度は佐久間盛政の注進で、長浜の勝豊|謀叛《むほん》すとの報であるが、勝家、盛政が勝豊と不和なのを知っているので、讒言《ざんげん》だろうと思って取合わない。しかし、勝豊の元の城下、丸岡から、勝豊の家臣の妻子が長浜に引移る為に騒々しいとの注進を受けては勝家も疑うわけにはゆかない。驚き怒るけれども、機先は既に制せられて居る形である。岐阜の信孝も、勝家の救なくては、如何ともし難いので、長秀を通じて秀吉と和を講じた。秀吉即ち信孝の生母|阪《ばん》氏並に三法師丸を受け取って、和を容れ、山崎に帰陣した。三法師丸は安土城に入れ、清洲の信雄を移り来らしめて後見となした。天正十年十二月の事で、物情|恟々《きょうきょう》たる中に年も暮れて行った。
明くれば天正十一年正月、秀吉、かの滝川一益を伊勢に討つべく、大軍を発した。秀吉としては天下の形勢日々に険悪で、のんびりと京の初春に酔い得ないのであろう。丹羽長秀、柴田勝豊をして勝家に備えしめて後顧の憂を絶ち、弟羽柴秀長、稲葉一徹等を第一軍(二万五千)として、近江甲賀郡|土岐多羅越《ときたらごえ》より、甥三好秀次、中村|一氏《かずうじ》等を第二軍(二万)として大君畑《おぼじ》越より、秀吉自らは第三軍(三万)を率いて安楽越よりして、伊勢に侵入した。この安楽越の時、滝川方で山道を切り崩して置いたので軍馬を通すのに難儀した。ある処では馬の爪半分ほどしか掛らない位であった。そこで馬の口を取るものが一人、尾を取るものが一人して通ったが、馬はみな落ちてしまった。ある者が馬の口だけをとり、あとを見ずハイハイと云って引いた処が一匹も落ちなかったと云う。馬は馬なりに信用すればいいものと見える。一益は長島に在って予《あらかじ》め兵を諸所に分ち、塁を堅くして守って居た。秀吉自ら、亀山城に佐治新助を攻めたが、新助よく戦った後ついに屈して長島に退いた。秀吉更に進んで、諸城を陥れんとして居る処に、勝家出馬の飛報を受け取ったのである。伊勢の諸城を厳重に監視せしめて置いて、秀吉は直ちに長浜に馳せ来った。秀吉、勝家決戦の機は遂に到来したのである。
勝家は信孝の急報に接しながら、雪の為に兵を動かす事も出来ずに居たが、雪の溶けるのを待ち切れず、江州椿坂までの山間の雪を人夫をして除かせた。しかし折角《せっかく》取除く一方から、又降り埋もれてその甲斐もなかった。何時までも、それだからと云って、待つわけにもゆかないので、三月七日、先鋒の大将として、佐久間|玄蕃允《げんばのすけ》盛政、従う者は、弟保田安政、佐久間勝政、前田又左衛門尉利家、同子孫四郎利長等を始めとして、徳山五兵衛、金森五郎八長近、佐久間三左右衛門勝重、原彦治郎、不破彦三、総勢八千五百、雪の山路に悩みながら進み、江北木の本辺に着陣した。勝家も直に、軍二万を率いて、内中尾山に着いた。北軍の尖兵は長浜辺まで潜行して、処々に放火した。本陣は内中尾山に置いて、勝家|此処《ここ》に指揮を執り、別所山には前田利家父子、橡谷《とちだに》山には、徳山、金森、林谷《はやしだに》山には不破、中谷山には原、而して佐久間兄弟は行市《ぎょういち》山に、夫々布陣したのである。勝家の軍がこの処まで来て見た時には、既に余吾の湖《うみ》を中心として、秀吉の防備線が張られた後なのである。勝家この線を打破らなければ、南下の志は達せられないわけである。さて勝家南下の報に、長浜まで馳せ上った秀吉は、翌日には総軍三万五千余騎、十三段に分って、堂々|余吾床《よごのしょう》に打向った。先陣羽柴秀政。二陣柴田伊賀守の勢。三陣木村|小隼人《こはやと》、木下将監。四陣前野荘右衛門尉、一柳市助直盛。五陣生駒甚助政勝、小寺《おでら》官兵衛|孝隆《よしたか》、木下勘解由左衛門尉、大塩金右衛門、山内一豊。六陣三好孫七郎秀次、中村孫兵治。七陣羽柴美濃守。八陣筒井順慶、伊藤|掃部助《かもんのすけ》、九陣蜂須賀小六家政、赤松次郎|則房《のりふさ》。十陣|神子田《みこだ》半左衛門尉|正治《まさはる》、赤松弥三郎。十一陣長岡越中守忠興、高山右近。十二陣羽柴次丸秀勝、仙石権兵衛尉。十三陣中川|清兵衛尉《せへえのじょう》清秀。最後が秀吉旗本である。先陣既に行市山の佐久間盛政の陣所近くに押し寄せ、双方から数百の足軽が出て矢合せしたが、其日はそれ位で空しく暮れて行った。翌十二日の未明、秀吉、福島市松、中山左伝二人を連れて足軽の風態で、盛政の陣所行市山を窺《うかが》い、その有様を墨絵にして持ち帰った。弟小市郎秀長、甥の三好孫七郎秀次などに向って「昨日の盛政の戦の仕様に不審を抱いて今日敵陣を窺って来たが、流石老功の勝家、此処で合戦の月日を延し、其間に美濃伊勢両国に於て、信孝、一益等をして勢揃なさしめ、秀吉を挾討ちの計略と見えた。彼をして容易に南下して信孝、一益等の軍と合せざらしめん為には、此処の要害最も厳重にしなければならぬ」と云った。秀吉はかの浅井長政との合戦以来、江州には長く住んで居て、地理にも下情にも通じて居るので、忽ちにして要害堅固な砦が出来た。盛政は秀吉の各所要害を一層に整備するのを見て、勝家に一日も早くこの難所を打ち通らなければ、ついには味方手詰りになると報じたが、時既におそしである。賤ヶ岳には桑山|修理亮《しゅりのすけ》(兵一千)、東野山には堀久太郎秀政(兵五千)、大岩山には中川瀬兵衛清秀(兵一千)、神明《しんめい》山には大鐘藤八(兵五百)、堂木《どうぎ》山には山路将監(兵五百)、北国街道には小川土佐守(兵一千)、而して木の本を本陣として羽柴秀長一万五干を以って固めた。其上に、丹羽五郎左衛門尉長秀を海津《かいづ》口の押となし、長岡(後の細川)与一郎忠興を水軍として越前の海岸を襲わしめると云う周到なる策戦ぶりである。さて充分の配備を為し終った秀吉は、木の本から大垣までの宿々《しゅくしゅく》に、駿馬を夫々置いておいて、自らは信孝包囲軍の指揮の為に、賤ヶ岳を去った。成算|自《おのずか》ら胸に在るものと見えて、強敵勝家を前にして、そのまま他の戦場に馳せ向ったわけである。つまり誘いの隙を見せたわけである。岐阜の信孝は、先に秀吉と媾和しながら、秀吉が伊勢に向ったと聞くと、忽ち約を変じて謀叛したので、秀吉の軍勢は再び岐阜を囲むことになったのである。勝家の陣へは、苦しくなった信孝からの救援の便が、次から次とやって来る。勝家大いに焦《あせ》るけれども、容易には此処を通り難い。そこで盛政と相談して、もと、柴田伊賀守の与力であった山路将監が、一方の固めの将である、幸い、彼をして秀吉に裏切らしめ、秀吉の陣を乱そうと云うことになった。日頃将監と親しかった宇野忠三郎と云う者に、密命を云含ませた。忠三郎即ち夜半に将監が陣所に忍んで、面会を求めた。将監、今は敵味方のことであり、且つ陣中なればと云って会おうとしない。忠三郎、大小を棄て、是非にと願うので、将監これを引見した。忠三郎が齎《もたら》した勝家の内意を知ると、将監は、主人勝豊も秀吉の味方となり、某も一方の固めを任された程である、今裏切ることは武士として情ない、と答えて諾しようとしない。忠三郎は更に説いて、勝豊を主人と云われたが、貴殿は勝家から勝豊の与力として添えられた者で、寧《むし》ろ主従の関係は勝家との間に在る、誰か不義であると云わん、且つは帰参の恩賞には、勝豊の所領丸岡の城付十二万石を給わる筈なのである、と勧めるので、将監とうとう慾に目が眩《くら》んで裏切を承知した。たしかに十二万石を呉れると云う誓紙まで要求して居る位である。一度柴田方を裏切って、秀吉につき、今度は秀吉を裏切って柴田についた。現代の政治家のある者のように節操がない。これでは妻子が秀吉のために磔《はりつけ》にされたのも仕方がないだろう。
佐久間盛政は投降した山路将監を呼んで、攻撃の方法を尋ねた。将監の答えるに、「何《いず》れの要害も堅固であるから、容易には落ちまい。ただ、中川瀬兵衛守る処の大岩山は、急|拵《ごしら》えで、壁など乾き切らない程である。此処を不意に襲うならば、破れない事はあるまい」と。盛政喜んで勝家の許に至り、襲撃せんことを乞うた。秀吉の智略を知り抜いて居る勝家は、敵地深く突入する盛政の策を喜ばない。盛政は腹を立てて、今一挙にして襲わなければ何時になって勝つ時があろうと、云うので、勝家止むなく許した。しかし、くり返しくり返し勝に乗ずることなく、勝たば早急に引取るようにと戒めた。勝気満々たる盛政のことだから、勝家の許しが出たら、もう嬉しくて、忠言など耳にも入らない。大岩山襲撃の策が決ると、四月十九日夜盛政を始めとして、弟勝政、徳山五兵衛尉、不破彦三、山路将監、宿屋七左衛門、拝郷《はいごう》五左衛門以下八千騎、隊伍粛々として、余呉の湖に沿うて進んだ。堂木山神明山塩津方面を監視の為に、前田父子二千を以って当り、東野山方面の監視には勝家自ら七千騎を率いて出陣した。東の空も白み、里々の鳥の声も聞える頃、盛政の軍は、余呉湖畔を進軍して居た。桑山修理亮の足軽共が、馬の足を冷そうと、湖の磯に出て居るのを見付けた盛政は、馬上から、討取って軍神の血祭にせよと命じたので、忽ち数名が斬られた。僅かの者が、賤ヶ岳へ逃げ帰り知らせたので、修理亮が物見を出して報告を受けた時は、もう大岩山では戦闘が始ろうとしている。修理亮使をもって、大岩山は破れ易い砦だから早速に賤ヶ岳の方に退いたら如何と告げしめると、瀬兵衛は、云われる如くに心許ない砦ではある、しかし、この先の岩崎山には高山右近も居る事だし、某一人引退くわけにゆかない、と答えて退こうとしない。兎角《とかく》するうちに盛政の軍は鬨《とき》の声を挙げて押し寄せた。瀬兵衛もとより武功の士だから、僅か三尺|計《ばか》りの土手を楯に取って、不破彦三等先手の軍勢が躍り込まんとするのを防ぎ戦い、遂いに撃退した。盛政大いに怒って自ら陣頭に立ち、息をもつかずに攻め立てたので、塁兵遂に崩れた。瀬兵衛も手勢五百を密集させ、真一文字に寄手に突入って縦横に切って廻るので、寄手は勢に気を奪われた形である。盛政、徳山五兵衛尉を呼んで、長篠合戦の時、鳶巣山の附城を焼立てた故智に習うべしと命じた。徳山即ち神部《かんべ》兵大夫に一千騎を添えて、敵の背後の方へ向わせた。瀬兵衛の兵も、盛政の新手の勢の為に残り少なくなって居る処に、退《の》き口である麓の小屋小屋に火の手が挙った。今は是《これ》までと瀬兵衛敵中に馳せ入り斬り死しようとするのを、中川九郎次郎|鎧《よろい》の袖に取縋《とりすが》り、名もない者の手にかからんことは口惜しい次第|故《ゆえ》本丸へ退き自害されよと説いた。瀬兵衛、今日の戦、存分の働を為したから、例え雑兵の手に死のうとも悔いないと答えたが、ついに九郎次郎の言に従って、九郎次郎、穂三尺の槍を揮い、更に竹の節と云う三尺六寸の太刀で斬死して防ぐ間に自殺した。岩崎山の高山右近は、大岩山陥ると聞くや、一戦もせずに城を出て、木の本へ引退いた。大岩、岩崎を手に入れた盛政は得意満面である。早速勝家に勝報を致す。勝家はそれだけで上首尾である。急き帰陣すべしと命じるが、今の場合聞く様な盛政ではない。盛政「匠作《しょうさ
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