五人扶持の彼にとっては、力に余る三両という大金だった。が、彼は前後の思慮もなかった。懐中していた一朱銀を、手金としてその通辞に渡すと、彼は金策のために、藩邸へ馳《は》せ帰った。
彼が、駆けつけていったのは、家老岡新左衛門の屋敷であった。岡は、かねてから玄白に好意を持っていた。彼は玄白の懇願をきくと、
「それは求めておいて、用立つものか。用立つものならば、価は上より下しおかれるよう取り計らって得させよう」といった。
そう答えられると、玄白も感奮した。
「されば、必ずこうという目当てはござりませねども、是非とも用立つものにしてお目に掛けるでござろう」と、誓わずにはおられなかった。
ちょうど、座に小倉左衛門という男が、居合わした。
「それは、なにとぞ調えて遣わされたい。杉田氏はそれを空しくする人ではござるまい」と、助言してくれた。
ターヘルアナトミアを自分のものにして、玄白は小躍りして欣んだ。
三
三月三日のことであった。玄白は、その日も長崎屋へ出向いていた。将軍家の、オランダ人御覧が昨日|滞《とどこお》りなく終ったので、カピタンを初め、二人の書記役《シキリイバ》、大小の通辞たちも、みなのびのびとした気持になっていたので、会談がいつになく賑わった。とうとうおしまいに、カピタンが珍※[#「酉+它」、第4水準2−90−34]という珍しい酒を出して、皆を饗応した。
その日は、良沢の顔が見えないほか、一座の者は、中川淳庵、小杉玄適、嶺春泰、鳥山松園など、皆医師ばかりであったので、対話は多岐にわたらずして、緊張していた。ことに、書記役《シキリイバ》の一人のバブルは、外科の巧者であったので、皆はバブルを囲んで、貪るように、いろいろな質問を発していた。
ことに、嶺春泰は、刺絡の術を、熱心にきいていた。
春の長い日が暮れて、オランダ人たちが食事のために退《ひ》いたとき、皆は緊張した対話から、ほっとしてわれに返っていた。彼らが急いで帰り支度にかかっている時だった。中川淳庵の私宅から、小者が赤紙の付いた文箱を持って、駆けつけてきた。
淳庵は、その至急を示した文箱を、ちょっと不安な顔付で取り上げたが、中の書状を読んでいるうちに、彼の不安な顔は欣びで崩れてしまった。
「諸君! お欣びなされい! かねての宿願が叶い申したぞ。明日、骨《こつ》ヶ原で腑分《ふわけ》がある! 腑分がある!」
彼は、喜悦の声を揚げながら、一座の者にその書状を指し示した。それは、いかにも町奉行|曲淵《まがりぶち》甲斐守の家士、得能万兵衛から、明四日千住骨ヶ原にて、手《しゅ》医師何某が腑分をすることを、内報してきた書状だった。
「腑分が! 腑分が!」
皆は、口々に欣びの声を出した。
淳庵、玄適、玄白など、オランダ流の医術に志すものにとっては、観臓は年来の宿願だった。が、その機会は容易に得られなかったのだ。
ことに、彼らは今日この頃、バブルから、身体内景の有様を新しく聞いていたので、腑分に対する宿望は、更に油が注がれたように燃えていた。
ことに、玄白は腑分ときくと、自分の心が飛揚するのを抑えることができなかった。彼は、ターへルアナトミアを手にして以来、腑分の日を一日千秋の思いで待っていた。彼はターヘルアナトミアの絵図が、古人の諸説とことごとく違っているのを知っておった。彼は、それを実地に照して、一日も早く確めたかったのである。
一座の人々の顔は、欣びに輝いていた。
「それでは、今夜はただちに帰宅して休息いたし、明日《あした》早天に、山谷町出口の茶屋で待ち合わすことにいたそう」
淳庵は、座中を見回していった。一座は、すぐそれに同意した。
その時に、玄白の頭の中に、ふと良沢の顔が浮んだ。彼は、良沢がやはり観臓の希望の切なことを知っていた。一座の誰にも劣らないほど、切なのを知っていた。たとい、良沢がこの席にいあわさずとも、明日の一挙にもらすべき人でないことを感じていた。
が、彼は良沢の名を、気軽に口にすることができなかった。良沢に対する軽い反感のために、たやすく口にすることができなかった。その上、彼の心の一隅には、日頃一座に対して高飛車な、見下《みくだ》したような態度を取っている良沢が大切な企てにもれることを、いい見せしめ[#「見せしめ」に傍点]だと思う心が、かすかではあるが動いていた。
それに、誰もが良沢のことに気がついていない以上、自分が特に注意するにも、当らないと思っていた。
が、一座がそのままに立ち上りそうになると、玄白の心は、だんだん苦しくなっていた。軽い苛責が彼の心を鞭打った。彼は、良沢に対する自分の態度の卑しさに、気づかずにはおられなかった。
彼は、とうとう黙ってはおられなかった。
「前野氏がいる! 前野氏がいる!
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